アニメとかの感想書留

Twitter「@kanso_na_kansou」https://twitter.com/kanso_na_kansou カテゴリー一覧http://animekanso.hatenablog.com/entry/2016/04/07/124605

単発感想 魔法つかいプリキュア33話

 『すれ違う想い!父と娘のビミョ~?な一日』

 

 背筋がゾゾゾっとするキモい話だったので、衝動的に感想を書いてしまいました。

 

 まあ、ある程度気持ち悪くなることは、先週の予告の時点で察してはいたんですけどね。サブタイトルには微妙な親子関係とか書いてありますけど、プリキュアがキャラクターの心情の機微なんて描けるわけがありませんから。リコがプリキュアやっていることをリコパパが知っていると知らされた時点で、「パパが戦闘中にリコを庇って、敵が『馬鹿みたい』って言って、反撃するプリキュア陣」って展開をやりたいことがよく分かりました。ここ最近、「なんか悩みを持った人が出て来て、それを馬鹿にする敵をやっつける」って展開を繰り返していますからね。安い喜劇です。プリキュアシリーズに関してはよくある手法なので今更驚くことでもありません。

 まあ、別に、流れ作業的に決まった型に当てはめてお話を作るってことが必ずしも悪いって言っているわけじゃないんです。ちゃんとシナリオとして中身が伴っていれば、ね。今回の話に関しては、敵を撃退した後になんか父娘が和解していますけど、お互いがお互いの思いを分かり合うような展開は一切ありませんでした。前回の話に関しては、サッカー部部長の少年が部員から離れられてしまったという問題提起から物語が始まるんですけど、その少年と部員との交流が一切描かれないまま、いつの間にか仲良しになっていました。プリキュアは難しいテーマが浮上した際、戦闘中いきなり悟り始めるという狂気の展開がお家芸なんですけど、同じ手法を日常パートでも積極的に用い始めたってことなんでしょうね。視聴者としては脱力してしまいます。

 私は今日の文章で「展開」という言葉を何回か用いたと思いますけど、正確にはプリキュアには展開というものは見られません。あくまでも前後の相関性があってこそ、展開は存在するのですから。その場その場の思い込みでネタをぶっこんできて、後のことを一切考えていない。整合性が取れていない内容を見せつけられるのは視聴者としても辛いことですけど、何よりも製作者さんご自身が自分の首を絞めるような結果になっているのではないでしょうか?

 例えば、リコパパに関しては勿体つけて散々引っ張った割には全然大したことない人物でした。フツーの異世界の考古学者です。みらいのおばあちゃんが「魔法使いについて何か知っている」ような勿体つけたような描写があったのにも拘らず、実は過去に一度ほうきに乗った校長先生を目撃したことがあるだけで、ただの一般的な老女だった展開と被りますね。

 みらいのおばあちゃんに関しては、魔法使いと直接的な関係が無いことにされてしまったために、存在意義がなくなってしまったばかりではなく、リンクルストーンダイヤがみらいの家にあったことに説明がつかなくなってしまい、また、リコの人間界での留学をフォローする人物がいなくなってしまうという結果を招きました。まさに、現在過去未来すべてに悪影響しか与えない展開を一話の内にやってしまったわけですね。リコパパも、プリキュアとして戦う娘が心配で人間界にやってきたはずなのにリコにプリキュアのことについては一切言及しないという奇妙な展開になってしまいました。さっきも書きましたが、「パパが戦闘中にリコを庇って、敵が『馬鹿みたい』って言って、反撃するプリキュア陣」をやりたかっただけなんでしょうね。それ以外のことに関しては、いくら整合性が取れていない内容になろうと、他意は無いんだろうなと思います。

 しかし、リコのお姉ちゃんにはプリキュアの正体は秘密なのにお父さんには普通にバレてるっていう、これはまた扱いづらい設定に持ち込みましたね。リコパパは今後何回登場するかも分からない超脇キャラとなったわけですけど、今後どういう風に扱われて行くのか見物ですね。

たまには更新5

今日は何となく気持ちが波に乗っているので、お話について思っていることを少しばかり書こうと思います。

 

個人的な話なんですけど、物語に関して「面白い」と「楽しい」と「感動」は結構明確に違うんですよね。

 

まずは「面白い」について。私が物語に関して「面白い」って感じる瞬間って、自分が知らないような登場人物の内面に出逢えた時なんですよね。自分には「これは譲れない」っていう大好きな小説がいくつかあるんですけど、そのいずれも、目から鱗の価値観を持っている人が一人は登場するんですよ。想像できない考えや価値観を持った人というと、どこか日常から逸脱した奇行に走る人や本音を喋らない人を連想しがちなのですが、私が小説を通じて学んだ登場人物は皆それぞれ、ささやかな人生(←正確には人とは限らないけど)を送っているんですよね。本当に好きになったキャラクター(←小説の登場人物をキャラクターというとイメージにそぐわないけど)に関しては、一人として同じタイプの人はいなくて、それぞれ唯一無二の存在なんですけど、物語の中で展開される現実に対して本当に誠実なんですよね。

これは私が勝手に思い込んでいることなのですが、男性作家の描く女主人公の内面って、どこか他人事なんですよ。年齢が高い作家さんの小説を読む機会が比較的多い方なので、そう感じるかもしれないですけど…「女は即物的だ」なんて感じが前面に出ているような物語なんてまず敬遠する対象ですね。いや、男尊女卑が悪いとかそういう話をしているわけじゃないんですよ。物語が他人事になってしまうのが問題なんです。物語って言うよりも、世間話の延長だなって感じてしまうんですね。そのような物語が悪いとは決して思いませんが、心から好きになることは無いだろうな、と諦めている節があります。

ここで注意しておきたいのは、「面白く」はないけど「楽しい」物語ってあるんですよ。敬遠する対象となる「面白く」ない物語を世間話と例えましたが、世間話って、人間の上っ面を撫でたようなしょうもないものでも、日々の生活で溜まった小さなストレスを発散してくれる一面があるでしょう。楽しいだけの物語は面白いだけの物語の下位互換だと思ってはいるんですけど、物は使いようと言いますか、状況によっていくらでも逆転するんですね。

しかしやはりバランスというのは大切で、いくら面白い物語でも「他人に伝えるもの」である以上、ある程度は「楽しく」なるような工夫は欲しいところ。世間話を引き合いに出してしまったので語弊を招いてしまうかもしれませんが、私なりの物語の「楽しい」の定義は、中身が無いということではなく、読者が物語の世界に入り込めるような構成なり演出なりを工夫している、ということです。厳しい言い方をしますけど、他人に伝わらなかったら、伝わらない人にとってはインクの染みでしかありませんから。

単発感想 魔法つかいプリキュア30話

個人的な理由により魔法使いプリキュアの感想を書きます。専用のカテゴリーを設けるほどのシリーズ化は予定していません。

 

感想

開幕校長室。

 みらいたちは、前回の話の終わりにリンクルスマホンから出て来た馬車の形のアンティーク(レインボーキャリッジとみらいたちが命名)について、校長先生に何か知っていないか尋ねるところから物語はスタート。しかし、肝心の校長先生は

「謎は多いが、みらい君たちに引き寄せられて出て来たものに違いない」

 と、「つまり何も分からない」宣言をしただけで終わりました。今に始まったことじゃないんですけど、この校長先生、いつもいつも「分からない」ばっかり言っていますけど。逆に本当に何を知っているんでしょうね。しかも今回の台詞については、「みらい君たちに引き寄せられて出て来たものに違いない」とまで断言していますけど、根拠は何なんでしょうか?まあ、それを校長先生ご本人に問いただしたところで、「それはわしにも分からん」と一蹴されるのがオチでしょうけどね。

 

 次に、「レインボーキャリッジについて何も分からない」ことが判明した会話がひと段落すると、校長室に補習メイトの三人がやってきました。それも瞬間移動で。

 ついこの間の引っ越しエピソードで、物体を複数持ち上げることが超上級者向けの魔法とかいう設定を展開したのにも関わらず、補修組三人に易々と瞬間移動を使わせるとか、製作スタッフが魔法の世界について何も考えていないことがここでも垣間見れる内容となっていました。

 この三人、みらい、りこ、ことは、モフルンの四人に「魔法の自由研究を手伝って欲しい」ってお願いしに来るんですけど、別に校長室までわざわざ四人を探しに来るほど「この四人じゃないとダメ」ってことでもありませんでした。いや、ケイの研究テーマはモフルンなので分かるんですけど、ジュンとエミリーは絵のモデルとヘアモデルを探していただけなので、別にわざわざりことみらいとことはの出る幕でもありません。

 モフルンを探していたケイについて行った先に、自由研究でてんてこまいしていたジュンとエミリーがいて、モフルン以外の主役三人が二人を手伝おうと思った、って展開じゃダメなのかな。

 さきほど私は「製作スタッフが魔法の世界について何も考えていない」って書きましたけど、ジュンとエミリーの使う魔法からそれを再確認させられる展開が続きます。ジュンは絵を具現化したり、エミリーは複数の櫛を魔法で動かしたりと、やりたい放題です。とてもじゃないけど、半年前まで水の形を整える程度の魔法で四苦八苦していた連中とは思えない実力でした。ここまでがAパート

 

 後半戦は、りこの悩み話から始まりました。補習メイトの三人と違って具体的な目標を持っていないことに不安を感じる、というのがりこの悩み。それに対してりこの姉、リズ先生は、りこに小さい頃魔法を教えたことにやりがいを感じたから先生になった、と語ります。(まあ、お前に教えられたリコは魔法の成績だけがポンコツで、ずっとコンプレックスを抱いていたんだけどな!)

 そして、リズ先生は「焦らず、ゆっくりと目標を探せばいい」と締めくくりました。

 私は30話にもなって「焦らず、ゆっくりと目標を探せばいい」っていう結論に持って行くのが意味が分からないし、シリーズ構成的な意味でスタッフさんたちはもっと「焦って、迅速に目標に到達」した方がいいと思うよ。

 

 一方、はーちゃんは自分の使う魔法が、皆と違う類の力であることに勘付いて悩んでいます。自分がみんなと違う存在なのではないかと。

 いや、明らかに違う存在でしょ。まず親がリンクルスマホンっていう時点で明らかに皆と違います。生まれてから半年以内でりこたちと同い年になるところかも、明らかに皆と違います。どうしてこのタイミングでこういう話を持って来たのか、意味が分かりません。

 放置するわけにもいかない問題だから、シナリオ的に消化するためにもこういうシーンを挟んだのかな、と思いきや、やはりそこはプリキュアと言いますか…

 その後、はーちゃんはみらいたちの姿を一見すると「はー!!」と喜んで、その後、この話の中ではーちゃんがその話に触れることは二度とありませんでした。

 モフルン曰く「元気になった」とのことですけど…他のことに注意が逸れて忘れただけに見えるというか、要するに頭が「ぱー!!」になったようにしか見えないです。

 

 その後いつもの敵とのエンカウントバトルが始まるんですけど…

 なんだか、敵の口から、敵の使っている力は「ムホウ」と呼ばれるもので、魔法とは違う類の力であることが明かされます。なんと、ムホウは「地上のあらゆる秩序を超えた、強大な力」だとか何とか。

 魔法とどう違うのかな?まあ、そもそも魔法が何なのかって全く明かされていないので比較のしようが無いんですけど。それよりもランプの魔人さん、あなたの目の前には言いがかりレベルでキレる無法者がいるんですけど、ある意味ムホウよりも恐ろしいんじゃないのかな。

 まあ、今回のバトル、「魔法の勉強が無駄」って笑う敵をやっつけるって内容になっているんですけど、そんな内容にはなっていません。えっと、どういうことかって言うと、「魔法の勉強が素敵」って主張するマジカル&ミラクルの攻撃が敵に一切通じず、その代わりに「勉強しなくても強力な魔法を使えるフェリーチェ」が敵をやっつけてくれました。

 

 笑

 

 こんな感じで、30話が終了です。

 来週はいよいよレインボーキャリッジの力のお披露目会。

 フォームチェンジは合体技が出るタイミングで死に設定になるなって覚悟はしていたんですね。しかし、心配ありません。フェリーチェの台頭によりミラクルとマジカルがいてもいなくても変わらないという状況を積極的に作り出すことによって既に死に設定になっていたのですから。ある意味来週は安心して観れますね♪

 

単発感想 魔法つかいプリキュア第29話

 いやあ、酷い酷いとは思っていたし、予告だけでもお腹いっぱいな内容だったのに、本編での内容は予想のはるか斜め上を行っていました。まさかここまでとは。

 しっかしまあ…投げやりすぎるというか…ついに「投げた」か、というのが今週の魔法つかいプリキュアを観た私の感想の全てになります。

 さて、それでは具体的にどこが問題だったのか、いつものように(?)箇条書きのスタイルで一つずつ指摘していこうと思います。

 

シンデレラ

 魔法つかいの世界の童話はナシマホウ界の童話と若干異なっている、というのが今回の話のコンセプトです。魔法使いの世界では、『シンデレラ』の主役シンデレラではなくシンデレラに魔法をかける魔法使いで、『花咲か爺さん』のお爺さんはじつは魔法つかいだったとのこと。

 どこから突っ込んでいいのかな?

 まずさ、花咲か爺さんに関して、りこは「魔法でもなければ、枯れた花を咲かせることなんてできない」とか言っているんだけど、今までの話で魔法が奇跡を起こしたことって無かったよね。基本的にこの世界の魔法って、物を持ち上げるとか、水を固めるとか、特殊な物理現象的な扱いをされているはずなのに、「不思議なこと=魔法」っていう認識に至るりこの思考回路が理解できないんですけど。というか一話前に、「ドンドン花が枯れちゃった」って大騒ぎして替わりの花を遠くの洞窟まで取りに行く展開があったけど、これって魔法使い連中に「魔法で復活させることはできない」っていう共通認識があっての話じゃなかったの?

 第一さ、

 百歩譲って、「魔法で枯れた花を復活させることができる」「魔法は不思議で、奇跡も起こす」世界観だったと仮定してもさ…そんな『花咲か爺さん』のどこが面白いわけ?ナシマホウカイの『花咲か爺さん』は花咲か爺さんの起こす奇跡が物語の醍醐味になっているわけだけど、「魔法が花を咲かせることができる」ことが当たり前の魔法使いの世界の住人たちが、お爺さんが当たり前にできることを当たり前にする物語を読んで何が面白いの?

 もうね、こういう思い付きで、アイディアを掘り下げるつもりが微塵も無い一発ネタは今に始まったことじゃないんだけど、それにしても、これを面白いと思っているなら作り手はドアホだと思います。

 あ、大事なことを言うことを忘れていました。

 この話、「主役が魔法使いの『シンデレラ』の世界に、みらい、りこ、ことはの三人が迷い込む」って話なのに、迷い込んだ『シンデレラの世界』、全編通して観てもどこが「魔法使い主役」になっているのか理解できなかったんですけど。

 

スマホ

 そもそもみらい、りこ、ことはの三人が迷い込んだシンデレラの世界って夢の中の世界で、スマホンが三人に魔法をかけた結果なんですよね。

 どうしてスマホンがこんな魔法を三人にかけたのか、作中では一切説明はありませんでした。前回の話では、ドンドン花が枯れたことに関して「いつもならこんなことにはならない」って、敵の動きを予感させるような意味ありげな台詞が教頭先生たちから語られていたんですけど、最後の最後までドンドン花が枯れた理由は説明されませんでした。

 ええかげんにせえよ。

 

レインボーキャリッジ

 こんなに盛り上がらない新商品の登場も珍しい。売る気無いだろ。

 絵本の中の『シンデレラ』でモフルンそっくりのシンデレラが、りこたちの力になりたいという一念で誕生させた新商品がレインボーキャリッジなんですけど、絵本の中のモフルンはモノホンのモフルンとは完全な別人で…となると、一体何がこの馬車を創り出したんだ?という疑問が生じてしまいます。

 まあプリキュアなら、「絵本の中の人たちにも心はあるんだよ!!」とかいきなり説教し始めそうですけど。

 っていうか新商品のコンセプトについてもさあ、プリキュアってそもそも「伝説の魔法つかい」って呼ばれていて魔法をかけたり奇跡を起こしたりする立場の存在なのさあ、魔法の馬車を使うって魔法の恩恵を被る立ち回りのキャラに許される特権なんじゃないの???まあ、あの馬車がモフルンやみらいたちが自力で生み出した奇跡だったら話が別なんだけどね。

 基本的に主役のモフルン、みらい、りこ、ことはの四人ってさあ、状況的にスマホンに良いように使われているだけなんだよね。道具に使われるとか、普通に恐ろしいわ。

劇場版ポケットモンスター感想<ボルケニオンと機巧のマギアナ>

恒例のポケモン映画鑑賞会。そして例年通りのポンコツ映画。

しかし言っておきたいのは、決してつまらない訳ではありませんでした。まあ、よくわかんない爆発機械オチとか、多すぎるストーリーの矛盾点とかは恒例行事としてしっかり引き継がれてはいたんですけどね。

ゆえに今一つ、というか全く感情移入できなかったわけなのですが…結構面白いと思ってしまったんですよね。それは何故か。この映画オリジナルのアイディアが面白かったんですよ。例えば作中、ポケモンを強制的にメガ進化させ従わせるメガストーンが登場するんですけど、本編のメガストーンという世界観を広げた面白いアイディアだと思いました。ただ、悪者の目的を達成するための手段として活用されるのみで、それ以上の広げ方をされていなかったのが残念だったと思いました。

タイトルにもなっているマギアナなんですけど…このポケモンも、人間が一から創り出したという、これまでのポケモンとはちょっと違った生い立ちのポケモンでした。生き物らしい鳴き声とかを発することは無いし、声の替わりに発せられる機械音はピロピロと単調なパターンなんですけど、仕草とかその他もろもろの感情表現が細かくて素直にかわいいなと思いました。ただ、マギアナの隠された秘密、彼女(?)の心が宿っているソウルハートという石(?)は飛行石でした、というオチ。まあそれは予想通りです。それ以外の秘密は特にありませんでした。作中「マギアナの心が宿っている」と言われていたんですけど、どうやってこの石が誕生したのかということについて言及されているとより面白くなるんじゃないかなと思いました。ポケモンを機械のように言いなりにしてしまうメガストーンと、カラクリ人形をポケモンにしてしまうソウルハートは対極な性質なものなので、ソウルハートの生みの親エリファスの思いとかと絡めつつその設定を掘り下げたらもっと面白くなったんじゃないかなと思います。

それと、これもまたタイトルになっているボルケニオンというポケモンなんですけど…このポケモンも「人間は信用できねぇ」って耳に胼胝ができるくらい作中で言いまくるんですけど、どうしてボルケニオンが人間嫌いになったのかということについては一切言及無し。ポケモンたちの楽園で、人間たちに傷つけられたポケモンたちの兄貴分的な存在なんですけど、山の仲間たちが傷つけられたから嫌いになったのか、それとも個人的に裏切りにあったからなのかは不明。「人間は嘘を付くけどポケモンは嘘を付かない」という彼の印象的な台詞があるんですけど、それがボルケニオンの個人的な体験から発せられた台詞なのかは作中明かされることはありませんでした。おそらく尺が足りなかったのではなく、単純に考えていなかっただけだと思われます。最終的にサトシを信頼するというラストに持って行くなら、ボルケニオンの人間不信のメカニズムはもっと深く掘り下げて、ボルケニオンの視点から「サトシは自分の知っていた人間とは違う」って思わせる展開に納得が生まれるものにするとよかったのではないかと思いました。

物語の舞台となるアゾット王国も、カラクリ仕掛けの王国という設定で、かなり具体的な特色のある街だと思いました。しかし、作中では、神秘科学の大家エリファスの故郷であり、そこに破壊兵器が眠っているという設定が説明されるだけで、他にアイディアの広がり方が全く見えませんでした。いや、物語的な役割としてはそれで十分と言ったら十分かもしれないんですけど、かなり凝った背景絵で面白い街なのに、最初と最後以外全然登場しないんですよ。基本的にサトシたちは、アゾット王国とネーベル高原を繋ぐ道を移動しているだけなので、映画全体の印象としても、カラクリというキーワードは印象に残りにくいものになっていました。純粋に勿体ないと思いました。

 

 ラケル王子

 カラクリの王国、アゾット王国のラケル王子にはジャービスという科学者がいました。ラケル王子はジャービスに騙される形でマギアナからソウルハートを抜き取ってしまうのですが…正直、この展開要らなくね??別にジャービスラケルの力なんて借りなくても終始悪事を働くことなんてできたよね?

 ラケルの成長物語が描かれているならまた別問題になって来るんですけど…ラケル王子は肝心なところではずっと眠っていて、破壊要塞を爆発させる直前に、バルブを回すための力仕事を手伝うという活躍しか見せませんでした。

 ・・・

 まあ、ぶっちゃけ、声優さんをゲスト出演させたいだけだったよね、っていう。

 でも、ゲストキャラはゲストキャラとしての活用のさせ方はあると思うし、こんな物語の根幹にかかわるところに登場させておいて、描写が投げやりって一体何を考えているんだ。

 個人的な意見。ラケル王子を中心に物語を展開した方が面白くなったんじゃないかなって思わないでも無かったり。

 ラケル王子は小さいころからカラクリが大好きで、ジャービスの勧めで神秘科学の大家のエリファスの研究に特に興味を抱いているキャラクターなんですけど、この人、アゾット王国、アゾット王国に献上されたカラクリポケモンマギアナ、エリファスなど色々な設定の中心に関わる人物な訳ですし。「間違いを認めて前進する」って物語的にも主軸がしっかりしたものが作れそうですし。

 サトシたちにはキミア王女というラケル王子のお姉さんが味方に付くことになり、物語の設定を色々と教えてくれるキャラではあるんですけど…ラケル王子を中心にした方が、便利屋フェアリーとして以外の役割も担えそうなキャラだったのになあと残念に思うところではあります。

 

ラピュタ

 破壊要塞が予想以上にラピュタで笑いました。しかしその破壊力は、ネーベル高原の温室育ちのポケモンたちに一致団結されて防がれる程度の攻撃力です。

 破壊要塞を爆破する直前に「私は研究室に閉じこもりっぱなしで」(←ここまではいい)「けっかジャービスに騙されることになった」というトンデモ理論がラケル王子の口から展開され、サトシはそれに対して「ポケモンたちと旅に出た方がいいと思うぜ」という謎のアドバイスを投げかけます。そういうラストにするなら、ネーベル高原を守ろうとするポケモンたちの底力に感銘を受けるシーンとかあってもよかったんじゃないかと思いました。

セーラームーンcrystal第三期<感想まとめ>

 

 

・・・やはり私は間違っていた。

 

私はこのアニメを真剣に鑑賞する前に、「このアニメの失敗点は原作を考えなしにそのまま焼き直ししたことにある」と書きましたけど、それは紛れもなく間違いでもあり正しくもあります。

というのもこの言葉、「どうせ漫画をアニメ化するならそれなりの工夫を見せてくださいよ」という意味で言っていたんですね。1期と2期は飛ばし飛ばしで鑑賞していたので、内容そのものよりも、テンポの悪さにばかり目が行ってしまっていたんですよ。しかし実際のこのアニメの欠点は、アニメ的な表現云々などと言った高級な次元での話ではなく、出発点である原作のデタラメな筋書きに起因していました。私は自分の的外れな感想を恥ずかしく思うのと同時に、「物語を鑑賞する際の『積極的に観ようとする意志』の大切さ」を教えてくれたこのセーラームーンcrystal第三期というアニメにある種の敬意を抱きました。

さてさて、一応半分を少し超える辺りまで感想を書き続けていたアニメなので、途中で各話の感想を放棄したとはいえ、最終的なまとめの感想はしっかりと書いておこうと思っていました。しかしここで難題を突き付けられます。先程書いたようにこのアニメ、本質的にはただただデタラメなだけで内容もへったくれもないので、具体的には「ここのどこそこがおかしい」と逐一指摘することでしか「感想を書く」という行動を示すことができないんですよ。しかもこのアニメ、分刻み、いや、秒刻みでこちらの常識を混乱させるようなぶっ飛んでトンデモ展開を繰り出してくるので、真面目に内容に突込みを入れていたら多分それだけで一生を終えてしまう気がします。

 

…ということで、今回のまとめの感想はナシということで。

 

としてしまうと本当にこのアニメに負けたことになりかねないので、強烈に印象に刻みつけられた内容だけピックアップして、「まとめ感想らしきき何か」を作り上げようと思います。

 

全体を通したあらすじ

箇条書きにして時系列順にまとめようと思います。

 

①新たな敵出現

②ウラヌス・ネプチューンの登場と、うさぎを巡る恋模様。

③サターンの出現と世界の運命

 

こう書いてみるとそれなりに内容がまとまっているように見えるのがあら不思議。しかしふたを開ければ中身はぐちゃぐちゃです。

まずは①新たな敵出現について説明しましょう。今回の敵はデス・バスターズと名乗る連中で、異次元宇宙からやって来た侵略者。これまでの敵とは一味違い、人間を化け物に変える、という恐ろしく外道なことをしてくる連中です。しかしセーラームーンたちはこの現象を不気味に感じたり驚いたり嘆いたりという感情の起伏を一切示しません。それどころか、目の前で化け物にされた人間に、敵を殺すためにぶっ放ってきた特攻型の攻撃をためらいなくバンバン打ちまくります。物語の終盤になって、引っ越しした友人を気に掛ける程度に地球の命運について心配しますが、結局最初から最後まで、一般人を心配するような描写はついに一度たりとも描かれることはありませんでした。

 正直、これじゃあ何のために正義の味方をしているんだろう、と疑問に思います。命を懸けて敵に立ち向かう、というのはそれなりの使命感や覚悟が要るもの。自分たちのことしか見えてない人たちが、命を懸けて地球を守るという行動をとるための動機ってなんでしょうね?真面目な話。彼女たちは、将来自らが統治者として君臨する地球というマイホームを守るために戦っているんだと思います。しつこいくらいの繰り返すプリンセス設定や、衛とちびうさとの家族ごっこを踏まえ、本編の内容と何とか辻褄を合わせようとすると、必然的にこういう結論が導かれてしまいます。というか、軒並み選民意識を感じるキャラクター設定を考慮すると、割と作者も本気でそういう内容にしたかったんじゃないかと私は疑っています。

 さてと、続いは②ウラヌス・ネプチューンの登場と、うさぎを巡る恋模様について説明しますが…まあ、簡単に説明すると、はるか(ウラヌス)・うさぎ、衛の三人のなんちゃって三角関係です。

 まあ、なんというか中盤は、本来ならば新しい戦士の登場により盛り上がってもおかしくない、むしろ盛り上がらない方がおかしいような内容なんですけど、肝心の主人公のうさぎは新戦士のウラヌスに関して「男なのか女なのか」ということばかり気にしており、彼女たちの戦士としての立ち位置とか、そういうものは二の次、というか殆ど全く触れられない内容となっていました。その上、ウラヌスたちはウラヌスたちで特に意味も無くセーラームーンたちに必殺技を仕掛けてきたり、かと思えばいきなりセーラームーンに忠誠を誓い始めたり、かと思えば最優先に安全を考えなければならないセーラームーン向かって「助けたくないけど身体が勝手に動いて助けちゃった」的な発言をし始めるし…

シーンが変わるごとに、ちょいちょい設定がリセットされるので、「よくわからない」というのが中盤に対する率直な感想となっておりました。

まあ、でも、一応バイトルヒロインもので、中盤がいくら滅茶苦茶な内容とはいえ、デスバスターズという倒すべき敵が定まっている以上、それっぽくまとめたように見えるラストに仕上がるかなと思ってはいたんですけど…甘い考えでした。

③サターンの出現と世界の運命と終盤の内容を表現しましたけど、本来はキーパーソンとなるべきセーラーサターンは、物語進行上の理由により、特に意味も無く二回殺される結末となります。一度目は、敵に一方的にやられるばかりの足手まといの内部4戦士たちの命を助けるために自ら犠牲になり、そして二回目は、まだ余力を十分に残しているけど何故か世の末を他人事のように傍観しているセーラームーンの替わりに頑張って過労死しました。「とりあえずキャラクターを殺しておけば感動話に聞こえるだろう」という安直な発想が伺える、ある意味漫画版セーラームーンらしい内容に仕上がっていて、その点では納得できる結末だったんじゃないかと思います。

しかしまだこのご都合主義の展開はまだ優しいレベルで…セーラーサターンなんですけど、世界に終焉をもたらすため召喚される前に殺さなけらばならない、っていうのがセーラー戦士たちの定説になっていたんですね。敵が世界をいよいよ侵略する、という場面になってセーラーサターンが召喚されるんですけど、当然ウラヌスたちは「世界の終わりだ」と嘆くわけです。(まあ、普通ならウラヌスたちが敵の侵略とセーラーサターンの登場により二重に絶望したっていう展開なんでしょうけど、作り手がこういうキャラクターの心情を計算していたかは不明。というか多分想定していない。サターンの強さを示すための演出として取りあえずウラヌスたちを絶望させておいた、という方が正のかもしれない…。)しかし、サターンが敵の大ボスと心中しようというシーンになっていきなりサターンのことを心配し始めるという始末。ウラヌスたちからすれば、二大災害要素が相殺して消滅するわけですから、両手を叩いて喜んでいいはず。しかし、「サターンが献身的に死ぬ」という感動を盛り上げようとするために、キャラクターの心情を無視して無理矢理悲しませて見せる、というのがセーラームーンcrystalの恐ろしいところです。

 

 

キテレツキャラクター大百科

月野うさぎ~~セーラームーン~~

能ある脳なしプリンセス

 

まあ正直、この人が幻の銀水晶という何でも願い事を叶えてしまうチートアイテムを持っている時点で、いくら敵が残忍な手段を用いようが、いくら仲間どうしで喧嘩しようが、悲壮感何ていうものは生まれるはずがありません。

まあ、世界の終わりが訪れようが、恋愛が絡まない限り自ら動かない怠け者なので、彼女を働かせるのはある意味敵を滅ぼすよりも難しいのかもしれない。

 

 

内部セーラー4戦士~~セーラーマーキュリーマーズジュピターヴィーナス~~

見方側の戦闘員

 

 本来ならば、セーラームーンに力を貸してくれる頼もしい仲間たち。しかし視聴者の印象に残ったのは、何といってもスッテンコロリン敵の攻撃を受けてぶっ飛ばされるみっともない姿でしょう。

それなりの活躍を見せてくれたのは、敵の末端の末端と戦っている最初の3話くらいまででした。

敵の雑魚幹部には一体一で戦っては敗れ、という展開を5話繰り返した挙句、何故復活したのか作中でも一切の説明が無い再生怪人たちにこれまでのまとめと言わんばかりに再び敗れ、しかもその直後、無限学園探索中に、ビルの崩壊という自然災害に巻き込まれて訳も分からずに敵の手に落ちてしまう、という役立たずっぷり。最終決戦では四人力を合わせてもちびうさごときの火力にすら敵わないという事実を突きつけられ、ついには最終決戦において、肝心な時に敵に魂を抜かれ敵に人質とされてしまいます。

 ところで、私は昔、ポケモンをプレイするときは、最初に貰った一体だけを育てるスタイルだったんですね。バランスよく育成するのは時間もお金も掛りすぎます。相性の悪いジム戦とかになったら面倒なんですけど、控えに居る雑魚を出して時間を稼いでいる間、適当に要のポケモンを回復させてやれば大抵なんとかなる。もしかしたらセーラームーンの作者も、似たような感覚を持っていたのかもしれない。

 

 

天王はるか~~セーラーウラヌス~~

怪人二十面相(?)

 

 男にも女にもなれて、人格がコロコロ変わる。そこから導かれる結論は…!!

 

 彼女には実体なんてそもそもなく、変装の上手い誰かさんたちが替わりばんこで役柄を演じていただけかもしれない。

 

 

海王みちる~~セーラーネプチューン~~

背景のワカメ

 

 恐ろしい程空気のキャラクター。学芸会でおなじみの背景のワカメ、以上に空気かもしれない。

 

 

冥王せつな~~セーラープルート~~

初心者マーク

 

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 ネプチューンと並ぶ空気キャラ。

 

 

土萌ほたる~~セーラーサターン~~ 

拗らせた中二病

 

①暗いところが好き

②急に発作が・・・!!

③いつも黒い服を着ている

 

 一応、②と③については作中で説明あり。ほたるの身体はサイボーグにすることでなんとか命をつなぎとめることができており、全身黒い衣装を着ているのはサイボーグの身体の秘密を隠すため、らしい。しかし、これらのことはほたるを苛める学園の生徒たちの口によって説明される設定ではあるんですけど、毎日黒タイツを履いているから苛めるって一体…そもそも、あんな全身メカニックになっていたら黒タイツを履いたくらいじゃ隠すことなんてできないと思うし、学園生活を営む上で、たとえば体育とかなんかではみんなと一緒に体操服に着替えないといけないのに、隠し通せるの???という純粋な疑問が湧いてしまいます。まあ、いずれにしても作中で「位ところが好き」な理由の説明は一切なかったけど。

 

 

土萌教授~~マッドサイエンティスト~~

「マッドなのは俺だけじゃない!!」

 

登場人物が軒並みマッドです。そういう意味では、土萌教授は全然マッドじゃありません。

というかそもそも、土萌教授がどうしてマッドサイエンティストと呼ばれているのかが謎なんですよね。娘の命をつなぎとめるために、娘の身体をサイボーグに改造するのってそんなにマッドなの???どちらかというと健気な気もするんだけど。

いずれにしても、今回敵が地球に侵略してきたのは、土萌教授の歪んだ心が彼らを招いたからだそうです。ということを、実の娘から説明されてました。ほたるも土萌教授のことをどう思っているのか分からないんですよね。彼の死に対して涙をはらはらと流す程心配して見せたかと思えば、数分後には完全に忘れ去ってしまうし。挙句の果てに、歪んだ心とまで評してしまうし。

まあ、なんどぶり返したら気が済むんだって話なんですけど、土萌教授の、ダイモーンに関する動物実験を狂っているっていう描写がそもそもおかしい。っていうか、動物実験=悪みたいな考えがすでに安直。私はむしろ、人が化物になる現象を自然と受け入れてしまっているこの世界の住人の方が十分にマッドだと思うんですけどね。

 

 

たまには更新

最近は忙しくてめっきり映画とかドラマとかアニメを鑑賞する時間は減りましたけど…正直、観ても観なくてもどっちでもいいや、ってものが多いので別に残念ではないかな。少し前までは、特に深夜枠のアニメなんかだと、悪目立ちしているシナリオの欠点なんかを自分で分析するという変態的な作業を楽しんでもいたんですけど、個人の力量が及ぶ範囲での分析はもうし尽くしてしまった感じがします。ドラマやアニメというのは、製作に携わる会社や個人がそれぞれ違っているので、作品によって欠点の持ち味も変わってくるような気もしますけど、不思議と傾向と相場は決まっているんですよね。まあ、深夜アニメなんて特に、場慣れしてしまっている人には「深夜アニメ的な脚本」というのが一部分だけ切り取っても分かってしまうところもあるとおもいますし。

あまり抽象的な書き方をしても伝わりにくいので具体例を挙げすね。

この間、偶然夜中、暗〇教室という名前のとあるアニメがやってたんですね。私自身はこのアニメに関しては原作含めて全く知らないので、そのときも完全に聞き流し状態だったわけなんですけど、登場人物の「これは、私たちが解決しないといけないことなんです!」という台詞が聞こえて来た途端、なんか頭に引っかかるものがあったんですよ。なぜって?「戦闘シーンでベラベラと大事なことを登場人物に喋らせて、シナリオの意味を説明させる」っていう手法はこの界隈の常識です。暗殺教室は原作がジャンプに掲載されているアニメらしいんですけど、もしかしたらこのシーンはアニオリなんじゃないか、ってピンときたんですね。

調べてみた結果大正解。

一応言っておきますけど、バトルシーンでキャラクターが会話を重ねることが悪いって言っているわけではないですからね。ただ、「そこをドラマで観たかったのに」って思うような大事な部分を、シナリオ的な意味合いを一切持たせずに、ワンシーンのキャラクターの台詞を通じて消化させるという手法に心底がっかりするだけで。

まあ、今「深夜アニメ」とジャンルをひとくくりにしましたけど、なんだかんだでドラマ業界やアニメ業界全体に、このような作品としての欠点の均一化が進んでいるような気はするんですよね。どうしてこうなってしまったのか、と言うことに対しては色々原因は考えられるのですが…私は一番は「描きたいと思うような内容が無い」からだと思っています。私のお気に入りの小説家さんの若い頃の書いた小説は、単純に文章も構成もヘタクソで、読破することにかなりの労力を要する内容になっていましたけど、読者に無感動という悲しみを残すような内容じゃありませんでした。伝え方は上手い方がいいですけど、それ以前に作品としてのテーマが無いと、お話の矛盾を指摘するとか、そういうひと時のネタで終わりそうなどうしようもない感想しか持ちえないじゃないですか。

まあ、矛盾するようなことを言いますけど、テーマが無いのがいけないかというと…そうでもないと思ってはいるんですけど。

まあ、ここまで愚痴を読んでくれた誰かのために、私の深夜アニメの鑑賞テクニックを一つ紹介しましょう

 

・最初の1、2話で概ねの世界観を説明し切れていないものはクソ

 

まあ、そういういアニメってスタートラインで大切な世界観の説明を省いて何をしているのかっていう話なんですけど、割と丁寧に箸にも棒にもかからないような友情物語や寒いギャグシーンを描写したりします。で、6話過ぎた辺りから尺が足りないことに気付き始めるのか、急ピッチで物語が展開して、今更かよと思うような世界観の説明や、明かされてもへえとしか思わないような謎や伏線が回収されます。で、それを一度にやりすぎてごちゃごちゃします。

どうしてこんな計画性の無いことをするんだということなんですけど、私は「尺が足りない分には構わないけど、余るのは困る」という製作者側の都合があるように思います。尺が余ってしまうと新たにシナリオを考えたりする手間があるけど、足りない分には、国語の要約問題みたいに最低限のキーワードを散りばめれば最低限作品っぽいものは完成するだろう、っていう目論見があるように感じますね。

念押ししておきますけど、これはあくまでもこの枠のアニメに(1年と6ヶ月くらいの短い間だったけど集中的に)付き合い続けて来た私の個人的な感想です。実際のところどうなのかは誰にもわからないし、もしかしたら本当に計画性が無いだけのことかもしれない。まあ、「やる気が無い」っていうのは事実だとは思うんだけど。

(まあ、やる気を出したところで、芸術的な描写をするっていうのが工夫の上限値、っていうのも悲しい現象もあったりする)

人生山あり谷ありって言う言葉があるように、業界にも好調なときと不調な時があります。上がり続ける株も無ければ下がり続ける株もありません。いつか「普通に」良質な物語が作られるその日が来ることを祈って、視聴者としては待ち続けることしかありませんね。