アニメとかの感想書留

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ドラえもん 新・のび太の日本誕生 感想

※紫小文字は追記になります2016/03/18

 

 恒例のドラえもん映画鑑賞会。毎年のことながら、ドラえもんの映画見ると一年終わったんだなぁとしみじみと思いますね。今年の映画の元である映画『ドラえもん のび太の日本誕生』は私のお気に入りの映画の一つで、昔、それこそ台詞を大体暗記してしまうくらい観ていたんですよね。思い入れの強い映画というだけあって、ノスタルジックな気分に浸ったりと、ちと複雑な心境で鑑賞しました。

 『ドラえもん のび太の新・鉄人兵団』に大胆な変更点が見られたため、この映画も覚悟してはいたんですけど、思ったほど旧版と大きな違いはありませんでした。物語の流れもそうなんですけど、それこそ台詞も殆ど旧版のものがほとんどそのままそっくり採用されている場面も多いです(※旧版の方を見返しつつ、ちょっと時間を置いて自分の感想を見返してみた結果、そっくりそのまま採用されている、ということは無いなって思いました。むしろ、同じシーンを切り取ってみたらはっきりと違いが分かるように意図的に作られていたように思います。例えば、この後に続く文章の中でも触れることになりますけど、劇中、らくらくしゃべるという秘密道具の説明が旧版では「岩なんてプリンみたいに軽く掘れるんだ」だったのに対し、新版では「岩なんて豆腐みたいに軽く掘れるんだ」という風に変更されていたんですよね。同じ言い回しならないようにしようという徹底した意思がないとこうなりにくいでしょう。秘密道具に関していえば、デザインの微妙過ぎる変更点にも作り手の意思が介在しているんでしょうね。 一度目に感想を書いた時点で気付くべきでした。当然ながら一度しか観ていないのでまだまだ私の気付かない細かい変更点があるとは思うんですけど、気付いた範疇で大まかな部分を以下に箇条書きをすると

 

・ドラミちゃんが映画に登場する

・タイムパトロールのマンモスが登場しない。そのため、のび太はタイムパトロールと連絡を取るためのスイッチを受け取らない。

・ギガゾンビの指令室のデザイン大幅変更。亜空間破壊装置を登場させるためと思われる。

・旧作にはなかった中ボス戦の追加。巨大土偶と戦う。

・亜空間破壊装置が起動する描写が見られる。ククルが壊す。

ドラえもんたちが直接ギガゾンビを倒す

・最後にはやはりタイムパトロールが登場するが、旧版とは違い、ドラミちゃんが召喚した。

のび太の家出騒動をめぐり、のび太のび太ママの心の交流が掘り下げられる。

 

ざっとこんな感じです。もうちょっと細かい点は、例えば、トレオドールのマントの色の変更とか時空震カウンターの風船の色がピンクからオレンジに変更、ショックスティックのボタンの色の変更などの道具のデザインに変更ありとか、「ここからここが僕の敷地!」の言い出しっぺがのび太からスネ夫に変更されているとか、時空震カウンターを使うシーンでののび太の「わかった?いつ?まだ?」のセリフがカットされているとか、ドラちゃんの有名な台詞「バーベキューにしてくれる~!!」がカットされていたとか、まさに枚挙に暇がありません。旧版と全く同じにするのも芸が無いからちょっと工夫したんだろうな~と思うものもあれば、現代の放送倫理にそぐわないためカットされたと思われる展開や台詞(ジャイアンの「ちぇっ、少女趣味!」「俺たちはもっと男性的な、冒険の世界の方がいいよな」っていう台詞のカット、ククルが野比家の冷蔵庫の食べ物を頂戴する展開のカットとかetc)もありました。他にも「そこ、変更する意味あるのか・・・?」と思うようなシーン(タイムパトロールの乗組員がおっさんから超美人なお姉さんになっている、とか、らくらくシャベルの説明が「岩なんてプリンみたいに軽く掘れるんだ」から「岩なんて豆腐みたいに軽く掘れるんだ」に変更されているなど)もあったりと、旧作のファンでも比較しているだけで色々と発見があって面白いですよ。

 今回「感想を書こう!」と思ったもそういった旧作との違いで心動かされたことを覚えているうちに書留ようと思ったから。できればそういった細かい違いを一つ一つ拾っていきたいんですけど、さっき「枚挙に暇がない」って書いた通り、それやってるといくら時間があっても足りないくらい細かいところでの変更が多いんですよね。ということで、本当にビックリしたところまで今回はピックアップして書いていきたいな、と思います。

 

 

新版はのび太たちのサクセスストーリー

最初の箇条書きに書いた通り、全体的な物語の流れにおいて一番大きな変更点って、のび太たちとドラえもんがギガゾンビを直接倒すっていうところだと思うんですよね。実はこの変更点においては、自分は旧作の方が好きだったりします。

という思いを語るには、まず私自身の旧作に対する感想を語らネバダ

最近いろいろと機会があって「ドラえもんの独特なSF観っていいよね」っていう話をする機会があったんですけど、『のび太と日本誕生』もその“独特なSF観”ってやつが色濃く見られる作品なんですよ。私が思うに、旧版の日本誕生におけるドラえもんらしいSF観は、「精霊と科学技術」っていうテーマに表れているかな、と思います。

というのもこの映画、ドラえもん山田博士ことギガゾンビが「科学技術を駆使して精霊王を名乗る」「原始人たちがギガゾンビやドラゾンビを敬う」展開からは、科学技術そのものの持つ力の強大さや、未知のものに遭遇したときの人間が感じる根源的な恐怖の表現がスゴいんですよ。劇中ではスネ夫たちが「昔の人たちは何にも知らなかったからね」と言って精霊を恐れるククル達原始人を馬鹿にするようなことも言うんですけど、だからといってドラえもんたち科学を知っている人類の方が優れているかといったらそうでもありません。現に、一世紀先を生きるギガゾンビに手も足も出ずにコテンパンにやられてしまいます。つまり、ドラえもんたちギガゾンビからすれば「最先端の科学を知らない」原始人みたいなものなんですね。かといってギガゾンビが優れた人材か、と問われたら、それも怪しいところ。亜空間破壊装置なんてとんでもないものを発明できることからも博士としてのギガゾンビは優秀であろうことが伺えますけど、タイムパトロールを前にしては殆ど無力に等しく簡単にやられてしまう。劇中の悪の巨人かと思われたギガゾンビも、ただの一般人に過ぎなかったわけです。

ククル達七万年前の原始人も、のび太たち20世紀の住人も、ドラえもんたち22世紀のロボットも、ギガゾンビたち23世紀の科学者も全員ただの一般人。時代は違えこそ、人間が精霊であったり科学であったりといった極大的な“自然”に対して信仰心を抱いて、それらと折り合いをつけて生活しているっていう構図は一緒なんですね。

ドラえもんは厳密に追及すると矛盾が生じている設定もあります。今作『のび太の日本誕生』においては、「歴史を改変することは悪だ」っていう時間遡行技術に対する倫理観が語られるのに、ククル達ヒカリ族が日本に移住する手伝いをするドラえもんたちの行いは疑問視されないことにもやはり設定の矛盾は見られます。そういういところでは、舞台背景や設定としてのSFは失敗は観られるんですね。といっても、矛盾が生じるのはSFっていうジャンルの宿命のようなものなので、細かい矛盾を指摘してドラえもんが「完成度の低い作品だ」っていうのは違う気がするんですよ。むしろ、ドラえもんSFの醍醐味は、「こうきたか!!」と思わせるようなイメージの広げ方や、頭ごなしに魔術的なものを否定しない度量の広さや、科学技術と人間の関係に対する鋭い観察にあります。あると思っています。

去年の映画の感想にも書いたと思うんですけど、最近のドラえもん映画はエンターテインメント性に比重が傾ているせいもあってか、そういった昔のドラえもんSFの見どころっていうのが潰されている気がしてちょっと悲しいんですよ。

 日本誕生のリメイクにおいては、のび太たちが秘密道具を使ってギガゾンビを倒すっていう展開がラストに来ているせいで、先述したような旧作の世界観のバランスが完全に崩れ、「秘密道具を使ったドラえもんのび太たちのワクワクドキドキアドベンチャー」という味付けに仕上がってます。

でも、どっちが優れているのか、っていうのは問題じゃないんです。旧作のちょっと湿っぽい感じの作風も、新作のちょっと(アホっぽい)元気な作風も、それぞれの持ち味なんですね。ただ、私は旧作に思い入れがあるので、作風の変化から時代の流れを感じてちょっと悲しくなっただけ。

ただ、前回のスペースヒーローズや今回の新・日本誕生を観て思ったことは、エンターテインメント性重視の方向で目指しているにしては、現状の作風は完成形に至ってないなと思います。全体的な構成は観ている人を飽きさせないワクワク感があるな、と思うものの、キャラクターの描写とか細かい部分に関しては雑すぎるんですよ。

新・日本誕生においては、雪山でのび太が「君は独りじゃ何もできない」と語り掛ける自分の幻を観るシーンや、ギガゾンビを倒したときの「一世紀の違いなんて、みんながいれば(ry」といったセリフが、その雑さを表すいい例なんじゃないかな、と思いますね。いつかどこかで観たことのあるようなテンプレートをなぞったシーンや台詞をコピー&ペイストするんですよ。だからなんというか…キャラクターの顔が見えないんですよ。例えばのび太に関しては「0点」「綾取り得意」「射撃が得意」とか、映画全編通して見ても人の表面的な部分にしか触れられてないんですよね。

端からそういうものを求めてない、観客をドキドキさせられればそれでOKっていうならそんな“余計な”描写は要らないですけど、新・のび太の誕生で観られた「家出する息子とその母親の心のすれ違い」みたいな人間ドラマ(←旧作には無い展開。新版オリジナル。)を描きたいなら、そのうちドラえもん映画製作陣にとっては課題になってくる問題だと思います。(※こういう書き方するとまるで「家出する息子とその母親の心のすれ違い」の描写に失敗したみたいな印象も受けなくもないですけど、決してそんなことはありませんでした。「家出」っていうテーマがそもそも映画に絡む余地が少ないため唐突感は否めなかったですけど、それでもいいシーンだなぁと思いました。ただ、他のシーンが、ちょっとなぁとは思いますが…)

 

 

突如として現れた人間ドラマ

 余計な追加シーンが多いな、と思う新作の中で、結構好きだったな新要素。家出をして家を恋しく思うのび太の心理描写とか、家出したのび太を心配するママの心の動きとか、そこら辺の描写が丁寧でいいな~と思いました。親子喧嘩の原因は「0点を取ったのび太にママが『外出禁止昼寝禁止令』を出した」っていうことなんですけど、最終的にはママは言い過ぎたと反省して、のび太も自分から机に向かうっていう双方の歩み寄りが見られました。この映画でこういう人間ドラマを挟む意味は特にないと思うんですけど、描写が丁寧だったので、不覚にもうるっときた。

 ちなみに旧版では、家出っていうのはのび太たちが7万年前の世界に行くきっかけに過ぎなかったので大分あっさりしていましたね。

 まあでも納得できなかったのはスネ夫しずちゃんの家の事情。旧版ではスネ夫、しずかの家出のきっかけがそれぞれ「全科目に家庭教師をつけられる」「ピアノのレッスンに疲れた」だったんですけど、「英語の他にフランス語、中国語、スペイン語まで習わされる」「何となくお母さんの期待がプレッシャーで」という理由にグレードアップされています。その上のび太の家庭とは違って親子間のやりとりに全く描写が無い挙句、最終的にはスネ夫は4ヶ国語の勉強を始めてしずかはピアノのレッスンに励むという子供の完全妥協の形で決着が着きます。なんというか…ちょっと子供がかわいそうになってしまうんですよね。とくにしずかちゃんなんて、「親の期待がプレッシャー」と思わせるくらい心理的に負担をかけ続けたら、放っておいたらいつか爆発しそう。

 な~んかなぁと思います。

 

 

ペガサスだけ…

 日本誕生、に登場するのび太の三匹のペット、ペガサス、ドラゴン、グリフォン。ドラゴンとグリフォンはしっかりデフォルメされているのに、ペガサスだけ異常に写実的に描いてあって超笑います。This is the 馬!って感じ。生まれたての頃は普通にデフォルメされていたのに。出てくるたびに、笑います。

 

 

スタイリッシュドラゾンビ

 ドラゾンビがちょっとスタイリッシュになってます。ドラゾンビはダサいところがいいのに!

 

 

スタイリッシュギガゾンビ

 ギガゾンビのマスクを外した姿がね、格好良くなっているの。40代で現役ビジュアルバンドやってますおじさん的なカンジ。こっちの方がThis is the 悪者!って感じの見た目です。

 新版はエンターテインメント性を重視したアドベンチャーに仕上げられているので、きっとギガゾンビもラスボスっぽく仕立て上げたかったのかなぁって思いました。

 ちなみに、旧作はちょっと出っ歯なぼうぼう白髪おじさんです。新作では髪も赤くなってます。

 

 

作画の進化

 言わずもかな、作画が超進化してます。

 特に凄いな、と思ったのが空の表現なんですね。夜空に星がキラキラと煌めく様子も有無を言わせず美しいんですけど、特に昼間の透き通るような青空と自然すぎる雲の流れなんて、綺麗すぎて恐くなりました。砂漠では夜空の満月が明るすぎて眠れない、という話もあります。考えてみれば、7万年前、まだそれこそ文明が殆ど皆無の時代って、人と空がもっと近かったのかな、なん思いました。

 あまりの青空の美しさに圧倒されて、劇場では不覚にもホロリと来たんですね。技術の進歩を実感して「ああ、時代は変わったんだな」ってしみじみとノスタルジックな気持ちに浸ってしまって。昔、風邪を引いて家で休んでいるとき、時計の針の音しか聞こえない心寂しい室内のベッドに横になって、ボーっとした頭で窓の外で悠然と流れる雲を眺めていたときのことがふと頭に浮かびました。

 自分語りになっちゃいましたけど、要するに、作画が凄いっていう話です。

 

 

最後に

念押ししておきますけど、新版が酷い、っていう訳じゃありません。私の好みの完成形ではなかったっていうだけです。劇場で新旧比較してあれこれ思い出して、怒ったり笑ったり悲しくなったり感動したりしているだけで楽しかったですよ。

旧版に思い入れがあるからちょっとなぁ、と思っている人は人で楽しみ方はありますよ☆

ドラえもん のび太の宇宙英雄記(スペースヒーローズ)

ドラえもん映画35作目。『ドラえもん 新・のび太の大魔境』の次作、『ドラえもん 新・のび太の日本誕生』の前作。2015年3月7日に公開されました。

 

 

ざっくりとあらすじ

 ドラえもんの道具でヒーロー映画の撮影をしているのび太たちだったが、悪者に故郷を追われた宇宙人たちがそんなのび太たちを本物のヒーローと勘違いして自らの星まで招待する。のび太たちは、ドラえもんの道具によるヒーロー映画の撮影の一環だと一連の流れを理解するが、物語が進む中でそれが遊びではなく、本物の戦いだという事実が判明する。偽物ヒーローであるのび太たちは、ボックル星を守り抜くことができるのか?!

 

感想

う~ん、結論化から言うと、魅力に乏しい作品、かな。

この映画の目指したところって、エンターテインメント性だと思うんですよ。この映画を通じて何かを伝えたいとか、そういうテーマ性って言うものを極力少なくして、いかにして観客、特に低年齢層を虜にするかっていうところに焦点を絞ったと思うんですね。一応、アロンっていうボックル星の保安官が『』という悩みを持っており、それがこの作品のテーマといったらテーマなのでしょうが、のび太と会話するシーンなどでサラッと触れられたのみで、物語の進行上では必然性が無いというか、忘れていても差支えない程度の描写しかありません。それよりも、秘密道具を使ったバトルシーンなどに重心が傾いており、最初、物語の起承転結の“起”の部分からめちゃめちゃ戦いまくってます。

(無駄に)バトルシーンが多い上、物語の進行はちょっとテンポ悪いなと思うところもあり、約100分尺のうち、「のび太たちが宇宙海賊団という悪者を認識する」という状況になるまで40分くらいの尺を要します。「異星で悪者と戦う」というメーンストーリーに突入するための段取りをかなり丁寧にしてくれており、実際に見ている側に優しく、分かりやすく作られてはいるんですけど、肝心のアロンっていう人物の掘り下げが全体通して甘いのと、どのキャラクターにも必然性が感じられないことから、前半のシーンを二度見三度見で振り返ると「これを入れるならもっと他に描くべきことがあったんじゃ…」という感想を抱くことを否めません。

しかし、キャラクターの個性を極力薄く、隙あらばギャグシーンと戦闘シーンを入れるという意味では終始一貫しており、それ故に“エンターテインメント性”に重点が置かれた作品なんだなあと納得してしまう節があります。“エンターテインメント性”とは辞書的な意味だと「他人を楽しませる」という意味で、映画にとってのエンターテインメントというと、「観客に分かりやすいような話の構成を組み立てる」ことであったり「ワクワクするようなシーンを入れる」ことであったりと、観客のためという目的は一致するけどそれに至る経緯で意味が派生してしまう厄介な言葉です。私は今回、エンターテインメント性と何度か書いていますが、それはハラハラワクワクドキドキするような演出面で観客を楽しませる、そんな面でのエンターテインメントのことを申しております。っていうか、一般的な意味でエンターテインメントっていうとこういうことを言うんだと思いますけど、私のような日陰に住む中途半端な映画オタクが“エンターテインメント”という言葉を意識すると、脳内のホムンクルスが百家争鳴の解釈戦争を繰り広げかねないので、敢えて一応の定義をしておきました。

さて、演出面で勝負に出ており、それも成功している(少なくとも失敗はしていない、と思う)この映画、どうして魅力に乏しいと感じてしまうのでしょうか?

 

  1. ボックル星って何よ?

 緑豊かなボックル星。ダイヤモンドの太陽、アルマス。宇宙海賊団。

 「宇宙海賊団がアルマスを狙うためにボックル星を乗っ取った」っていうストーリー上においては矛盾はないのですが、ボックル星とアルマスはどういう関係なのかということが全く触れられておりません。たとえば、アルマスから放出される光は生命エネルギーに満ち溢れているからその恩恵を被ってボックル星の緑は豊かなんだよとか、そういう説明がちょこっとでも欲しかったな、思いました。また、『グラファイトが欲しい』と地面を這って死にそうな声を出していた敵の親玉イカ―ロスですが、なぜ彼(彼女?)が炭素を欲していたのかとか、そういう説明も一切なしです。また、のび太が綾取りでイカ―ロスをやっつけるのですが、その時にのび太ヒーローバッジが光るんですね。そして超威力を発揮してイカ―ロスを独りでやっつけますが、どうしてのび太がそんな火力のある攻撃ができたのか、バッジが光ったのにはどういう意味があったのか、そこら辺の説明も一切合財されません。「ヒーローバッジは精神エネルギーで動いてる」とか、「本物の英雄の資格を認められたときにバッジが光る」とか、何かしら前触れがあってのことならのび太ってすげぇな!って思えるんですけど、序盤から終盤にかけて、一貫して戦力外のギャグキャラとしての立ち位置を保守していたのび太が、“なぜか”発動した“奇跡的な力”で悪者をやっつけても、唐突すぎて正直ポカーンなんですよ。

 とにかく設定、世界観がガバガバで、ファンタジーとしての魅力もSFとしての魅力もありません。悪い意味でドラえもんらしくない作品だなと思いました。

 でも、そんな土台が弱い舞台でも、エンターテインメント性で押し切れているのが、この作品の凄いところだとは思いましたけど。

 

 2.内容がないよう

これは説明しなくてもいいかな

 

 この映画に関しては、思ったことはこれくらいかな?

 正義が悪を倒すドタバタ劇の完成度は高いと思いましたが、世界観をはじめとする知的な魅力に裏付けされているともっといいのにな、と感じた作品でした。

 

 日本誕生、ギガゾンビ楽しみだけど、観るのがこわいや。