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アニメとかの感想書留

ブログ名の通りです。映画に焦点を絞りたいな、と思っております。カテゴリーの一覧はこちら→http://animekanso.hatenablog.com/entry/2016/04/07/124605

第9話感想とセーラームーンの魅力について

 

あらすじ 友達を救え!ムーンウラヌス連合

カオリナイトがウラヌス・ネプチューンを罠にかけて、ネプチューンが捕まって、ウラヌスが見捨てようとして、セーラームーンが説得して、結果みんな助かってめでたしめでたし。

 

感想

ごめんなさい。デタラメすぎてあらすじ書く気が失せたんだわ。

セーラームーンとウラヌス・ネプチューンが方向性の違いから直接衝突する第二回。「どちらかに万が一のことがあったら、情に流されて助けに入るような真似はしないで、どちからが生きて使命を全うする」って誓い合ったウラヌスが苦渋の決断によってネプチューンを見捨てようとするんですけど、そんな彼女をセーラームーンが「薄情者!」と罵るところとかなんかは、相容れない二人の存在を分かりやすく示してくれてた対立構造でよかったです。しかし、『ネプチューンが敵の攻撃を受けて滝つぼに落ちた』っていうのは、ウラヌスがネプチューンを見捨てようとする理由としてはちょっと弱いかな。まあ、そんなことどでもいいんだよ。

 

なぜウラヌスがネプチューンを助けに行ったのか

ネプチューンの生存確率が半々なくらいな状況だったら、ウラヌスだって彼女を助けに行った方が、後々の任務の遂行がスムーズに進行するでしょう。あの状況で「見捨てる」という選択肢が入って来るのは、不自然を感じます。

 しかしね、ここまでの不自然な展開も、この一話を使って表現したいものがあった結果、仕方なしに生まれた要らないおからのようなもの。あくまでも重要なのは、「セーラームーンの力で二人を助ける」という展開です。だから、多少のことはケチつけないで目をつぶろうと思いましたよ。まあ、そののちの展開とやらに実がないからこんなに怒っているわけで、ね。どうして実が無いと感じたのか、一つ一つ展開を追って整理してみましょう。

さて、「ネプチューンを見捨てるウラヌス」→「セーラームーンとウラヌスが協力してネプチューンを助ける」っていうのが今回のおおまかな流れ。この流れの中で無視できないくらい大きなものははやり、なぜウラヌスがネプチューンを助けに行く気になったのか、ということです。いったいなぜなのでしょうか?→いったい何故でしょう?残念ながら、それに対する結論は、この話の中では説明されていません。っておい!なんか仲良くなって、なんかムーンとウラヌスのコンビネーションが良くなって、なんかネプチューンが助かって、なんかウラヌスがムーンを認めて終わり。すべて偶然で成り行きが運ばれる。前後の展開に必然性の感じられないモザイク模様のシナリオこそ、この話の本質だね。

 それとなくウラヌスがムーンと仲良くなるような描写はあるんだけど、「ムーンの人柄を知り、彼女に可能性を掛けてみたくなった」っていうわけでもないんだよなぁ。

 

「誰だって犠牲者は出したくない!でもそれで、世界が救われるなら、お前ならどうする?」

ウラヌスの言葉。それに対してセーラームーンは何も答えません。

 

「背中、かいいの」

確かに誰とでも仲良くなれる、警戒心を抱かずに分け隔てなく接することができる心優しい少女、としてセーラームーンは描かれることがあります。だけど、生きるか死ぬかの状況で、しかも使命に対するウラヌスの苦悩が語られた後にさ、「ウラヌスとムーンが仲良くなる」っていう流れを作ったのがうさぎの性格なんだよね。ピリピリしているウラヌスの心情をリラックスさせる、とかいう状況でうさぎの人柄が生きたならとにかく、犠牲者を巡る意見の対立が描かれる中で、ろくな答えも出ないまま人柄パワーで仲良くなってもね…視聴者としては誤魔化された感が否めないです。(っていうか、うさぎが都合の悪い事実を誤魔化した感も強いです)。

 

ウラヌスの正体は?

ウラヌスから香ったコロンが、はるかのものと同じだったところから、うさぎは彼女の正体に気付きかけます。しかしこの話が終わるころにはすっかりそんな展開は忘れられていて、まるで無かったかのような扱いになってしまいました。何のための展開なの、本当に…

 

作画

中村作画。

最初は丁寧なのに、後半になるほど雑になって行くのが笑えるw

話そのものよりも、作画の方にドラマを感じたね。

 

全体の印象

 もうね、あまりにも作り手のやる気が感じられなくて、逐一欠点を指摘するのも面倒臭いレベル。いいんじゃない。たまにはこういう回があっても。

 

おまけ

特筆することもないこの回だからこそ、語っておこうかな、と思う無駄話。を幾つか。

 

セーラームーンの魅力

今回の話、ウラヌスとセーラームーンが力を合わせる、というシナリオの他に、もう一つ、トップレーサーとして活躍するはるかの物語が存在しました。ぶっちぎりで優勝するはるかに対して、同じレースに参加していた男のレーサーたちから「女のくせに!」と暴言を吐かれた上に、トラックやレンチなどで殺しにかかる勢いで襲ってきます。はるか自身が肉体的にも強かったから問題はありませんでしたが、なぜ男たちはここまで激しく攻撃を仕掛けてきたのでしょうか?

日本は男女平等が進んでいない、とはよく言われますが、昔に比べたら、まだましになったものです。2015年現在の感覚からはちょっと掴みにくいかもしれませんが、ーラームーンSが放送された1994年、つまり今から20年前は、男社会に置いてん女性蔑視は今よりもあからさまだった一面があります。職場で女の方が仕事ができると、男たちが結託して陥れたり、「女のくせに」という喧嘩文句が黙認されていたりと、女性が屈辱を噛みしめる機会も多かった時代です。そんなこと言ったら、「~ハラスメント」と問題にされてしまう(←これが良いか悪いかはまた別問題。新聞やテレビが煽るために誇張しているところもあるので、これについては各自で考えて、あまり突っ込まないでね)現代の感覚からは、分かりにくいかもしれません。

セーラームーン、という作品は、女の子らしい女の子が戦います。面白い漫画を読めば大口を開けて笑い、嫌いな勉強は後に回す、親に叱られて落ち込むこともあれば、友達のために一生懸命になって時には涙すらこぼす、と、現実における“純粋な女の子”というものに対するステレオタイプをリアリティのあるように体現した、非常によくできたキャラクターとなっておりました。その女の子が、セーラームーンに変身して妖魔と戦います。“妖魔”という敵もまた、いわゆるバトルもののアニメに登場する敵とは異彩を放っており、人間を緑色の化け物に作り替えたり、槍を使ってセーラームーンを本気で殺しにかかってくるなど、「化け物」や「敵」という存在の恐怖が強烈に再現された、かなりのリアリティを感じる存在になっております。

当然、そんな敵と生きるか死ぬかの戦いをするのは、誰だって怖いと感じます。当然うさぎも怖いと感じるはずで、妖魔の攻撃で刺殺されそうになったり、頬に切り傷をつけられた際には泣いていました。しかしうさぎは、仲間たちに支えられながらも、戦い続けました。女の子らしく怯えながらも、女の子らしく純粋に一生懸命に敵と立ち向かいました。最後には仲間を全員殺され、そして愛する人を失い、孤高の戦場でクイン・ベリルと戦って勝ちました。

くどいようですが、セーラームーンという作品(特に無印)では、女の子と妖魔の存在がリアルに表現されているため、“女の子が活躍する”というシチュエーションにも必然的にリアリティを感じます。妖魔と戦っていたセーラームーンの強さは、女の子の強さでした。

女性に対する風当たりが強い社会の中、セーラームーンのように女の子が女の子として社会で活躍する、というのは、女性の目指した理想の社会の一つだったのかもしれません。

アニメ時代の一端を担ったセーラームーン。「月に代わっておしおきよ!」と、あの黒柳徹子さんも言ったくらい有名になりました。なぜ、セーラームーンはここまで有名になったのでしょうか?理由は一つではないでしょう。話題性、デザインの可愛さ、売り方など、理由は無限に考えられます。実際に、答えは一つではないでしょう。しかし、社会現象なるほどのアニメ的な魅力、エネルギーは、女の子としてのセーラームーンにあるのではないか、と考える今日この頃なのでした。