劇場版ポケットモンスター 結晶塔の帝王 ENTEI
劇場版ポケットモンスター第三幕。作画監督が香川久さん、ということで、セーラームーンS繋がりでこの映画を鑑賞しました。実は、以前に観たことがあるのですが、内容は殆ど覚えていなかったりしたので、殆ど初見状態です。
あらすじ&感想
遺跡にて
シェリー博士は娘のミーに絵本を読み聞かせています。世の中には、まだ見たことのないポケモンがいる、そしてその中でも自分はアンノーンと呼ばれるポケモンを探していることを話しました。
博士はアンノーンを求めて砂漠の中の遺跡まで赴きます。そこで目にしたのは、箱に入ったアンノーンの石版の数々。石版が不思議な力を発揮すると、博士は不思議な空間へと飛ばされてしまいます。
博士のすぐ側にいた助手はアンノーンの出現に気付くことはできず、結局、博士の失踪は謎に包まれたままなのでした。
ミーの寝室のおもちゃがかわいいですね。ドンファンの滑り台とか要らないけど欲しい。昔のポケモン映画って割と毎回ポケモンをモチーフにしたおもちゃが出てきますけど、ポケモンの特徴をとらえていてクリエイティブです。
メールのパソコン受信画面でポッポが手紙を加えて飛んでくるんですけど、懐かしのポストペットを思い出しました。
さて、父親を失ったミーはどうなるのでしょうか
ひとりぼっちのミー
ミーは白の使用人から、父親が失踪したことを告げられます。父親の替わりに残ったものは、わずかな父親の持ち物と、アンノーンの石版。
寂しさを感じるミーに石版が反応すると、アンノーンが異次元(?)から召喚されました。すると、不思議な結晶に室内が包まれます。
エンテイの本を取り、父親の帰還を望むミーの前に、エンテイが現れました。ミーは父親がエンテイになって帰って来たと勘違いしてしまいました。
オープニング
サトシがポケモンバトルするだけです。
失踪したシェリー博士がオオキド博士の教え子であること、そして、シェリーが結晶化したグリーンフィールドの中にいることが判明します。
バトルシーンは、今のポケモンのように躍動感に溢れた動きを見せような派手なアクションは見られないんですけど、仕草にポケモンという生き物らしい特徴が感じられたりして、また違った見どころがあって、それもそれで味が出ていますよ。チコリータが足にサトシのすり寄って行くのがちょっとかわいいな、と思ったかな。
グリーンフィールドにて
サトシたちがグリーンフィールドに行くことになるのですが、そこは既に、謎の結晶に包まれたグリーンフィールド。
シェリー博士がオオキド博士の教え子であること、そしてミーに母親がいないことが説明されて、オオキド博士とサトシのママがグリーンフィールドへ向かいました
ママ
さっきマサラタウンで会話していたばかりのママさんたちが、もうグリーンフィールドに到着します。
ママが欲しいと言ったミイの願いをかなえるために、エンテイはサトシのママに催眠術を掛けて連れ去らうのでした
ずっと一緒→このまま…→ママを助けに→結晶塔の中へ
内容は大体副題通り。ミーは現状に満足して、ミーの創造の世界が広がって行くのに快感を覚えて、エンテイがそんな幸せな空間の現状維持に四苦八苦します。
気になったのはみんなの声が若いことかな。サトシもかなり若いんですけど、ソーナンスが予想以上の若さで笑ってしまった。
タケシVSミー→カスミVSミー
ポケモンバトルしたい、っていうミーの願いで、ミーは大人の姿になってカスミとタケシに勝負を挑みます。
まぼろし?
サトシとママが、ミーに現実の世界に戻るように説得します。ミーは受け入れられずに拒否。
幻の世界からミーを取り戻すため、サトシがエンテイと戦います。絶体絶命のピンチのところにリザードンが現れて助けてくれます。
しかし、リザードンでも敵わず負けてしまうのですが、エンテイが止めを刺すのミーが止めます。サトシ、タケシ、カスミ、ママの優しい説得を受けて、ミーは現実世界にも目を向けるようになりました。
脱出→最後にできること
アンノーンが暴走しました。エンテイは、自らの存在が消えることを覚悟のうえで、ミーを助けました。
本当のグリーンフィールド
グリーンフィールドは、本来の姿に戻りました。ミーのところに父親、母親が戻って来てめでたしめでたし。
爽やかな風が吹き抜けるグリーンフィールド。これこそ本来の姿です。だけど最後に一言。風車小屋とひまわり畑の光景が映し出されるんだけど、くっせぇんだ、ひまわり畑って。
感想&考察
あ、これ、苦手なタイプの映画だって中盤に差し掛かってようやく理解しました。内容そのものには具体性があまり感じられないんですけど、その分、舞台の背景となる設定(人はそれを世界観と言います)には凝っていました。物語、というよりかは、芸術としてのテーマの伝え方なんだな、と改めて感じました。
分からないんだ、結局。いくら考えても、的外れになることは分かってんだね。でも、この映画には、それでも感想や考察を書きたくなるようなパワーに溢れてるよ。恥をかくのを承知で、感想と考察を書き進めて行こうかな。
サトシ
本作の主人公、なんだけど殆ど部外者。確かに、アンノーンにとらわれたミーを開放するキーパーソンではあるんですけど、かといってサトシの物語かと言われると、ちょっと違うような気がします。
例えば、サトシがミーに「このままじゃ、ミーはずっと、ひとりぼっちなんだ!」というシーン。あらすじを書いているときに触れておいたかもしれませんが、この言葉自体は非常に核心に迫っています。ミーはそもそも、ひとりぼっちが寂しくてこのような結晶の世界を創り上げたわけですが、このまままやかしの世界は、彼女が最も欲していた人の温もりというものから最も遠い世界でもあります。このままアンノーンに囚われ続けてしまうと、彼女は幸福を得ることはできません。それはサトシたちの恐れることであり、また、彼女を幸福を望むエンテイの危惧すべきところです。
しかしこの言葉、サトシが言うことに必然性は無いんですよね。もっと具体的に言い換えると、この言葉、サトシがミーの立場を理解した上でエンテイを説得した、と考えるには物語的な裏付けが弱いという意味です。ママさんのような大人ならとにかく、サトシのような10歳の子供、しかも、いつも友人に囲まれて陽の当たる世界を歩んできたような人に、ミーちゃんの寂しさが理解できるかと考えるとちょっと無理があるような気がします。一応、サトシとミーは昔、交流があったという設定はありますけど、ミーの立場を理解する理由としては弱いかな、と感じてしまうことも否めません。
事件解決の突破口になったサトシは確かに主人公らしいし格好良いんですけど、やはり、主人公としての役割は果たし切れていないかな、と思ってしまいます。
しがないサトシたちを助けに入った昔の相棒。知らない人のために解説しておくとな、金・銀時代のポケモンのアニメは、ジム戦を勝ち抜いてポケモンリーグ出場の鍵を手にしたところまではいいものの、戦力的には弱するので、自らが強くなるために新しい地方で新しい仲間と強くなろうと決心した際に置いて来た昔の仲間の力に頼る、というちょっとスゴい作品なんだよ。手持ちがチコリータ(後にベイリーフ)、ワニノコ、ヒノアラシ(ダイパでマグマラシに進化)、フシギダネ、ヨルノズク、(現時点では入手していないがゴマゾウ→ドンファン)じゃあ、仕方といったら確かに仕方ないんだけどさ。
かっこかわいかったよ、リザードン。
カスミ
バトルシーンが印象的だったかな。カスミが最初に出したトサキントというポケモン、アニメではモンスターボールから出したのはいいものの陸上で「トサキント」とちょっとキモイ声で跳ね続けるという、ちょっと不遇なキャラクターなんだよ。見せ場があってよかったよかった。
タケシ
何気に影のMVP。見た限りだと、この方が一番ミーちゃんのことを分かってるような気がしました。「ゴマゾウの転がる、凄かったな」って言ってましたけど、結晶の中に閉じこもっていたミーを外の世界に目を向けさせるきっかけとなった一言です。達観しすぎていて、頼りになるお兄さん、というより肝の据わったおじさんです。
ママ
この人、なんだかんだで最後まで名前呼ばれることがありませんでした。自然な流れで名前を呼ばせないってすごいな。裏金でも回してるのかな?
作中、一切その正体については謎に包まれたまま終わってしまいました。めちゃめちゃキモイです。そして、恐いです。勿論、正体不明の不思議パワーそれ自体も恐いのですが、どこから来たのか分からない、何を考えているのか分からない、生き物なのかすらも分からないと、分からないことだらけのポケモンで、その道の先にある神秘的な部分に恐怖を感じたのかもしれません。
作中に本当に一切の説明が無いのでこれは想像で補うしかないのですが…アンノーンの正体はきっと、『精神世界の使者』のようなものだと思います。事実、劇中で「アンノーンのはミーのイメージを体現している」と説明がありましたし、謎めいた宇宙空間のようなところから神出鬼没にやって来たことから考えると、この結論が妥当かな、と思います。
アンノーンが文字の形をしているのも、人の心とか、精神世界とか関係がある証拠なのかな、と思います。人は言葉によって物事を理解するとも言われていますし、言葉による先入観で目の前の景色を無意識に作り上げているとも言われています。アンノーンの力というものは、言葉の持つ後者の力をより具体的にしたものなのかもしれませんね。
文字はそれ一つでは意味を持ちません(←厳密に考えるとこれも間違えなんでしょうけど)。これも、何らかの力を発揮する際にはいつも集団で動いているアンノーンというポケモンの性質とマッチしているように思われます。また、文字は人の思考を表すものでもありますけど、文字それ自体が思考をもつものではありません。これもまた、「何を考えているのか分からない」という性質に適っているように思われました。
言葉は絶えず意味が変化する、ある意味生き物の様だと表現されることもありますが、いくら不気味エイリアンでも、アンノーンは、ポケモンという生物なのでしょう。
さて、この方に関しては一番攻めた考察を書くつもりです。
この映画のドタバタ劇の発端はアンノーンであり、グリーンフィールドを覆った不気味結晶も、アンノーンがミーのイメージを具現化させたものであると説明を受けます。結晶の他にも、結晶塔の中の花畑や海といった不思議空間もミーのイメージですし、また、大人になったミーも、そのミーが使ったポケモンたちもミーのイメージから作られたものです。ミーの意思が宿っていた『大人のミー』という存在はさておいて、他のものは、終始ミーが望むような形に姿を変えました。事実、花畑に突然現れたポケモンのバトルフィールドや呼吸可能な深海、いくらでも強くなり得るポケモンたちが存在していましたね。
さて、ここまで書いて疑問を感じることが一つ。『エンテイ』というポケモンの存在です。まず、その生い立ちが特殊です。エンテイは「お父さんに帰って来てもらいたい」というミーの願いから生まれたものの、それなら、イメージの父親それ自体が生み出されてもよかったはず。また、彼は、「お父さん」が欲しいという願いから生まれたにも関わらず、「ミーを守る者」としてしか自らを認識しておらず、「ミーの父親」だとは思ってもいませんでした。作中、ママを助けに来るサトシたちの妨害をしましたが、それはミーの意思とは関係なく、自らの意思での行動でありました。生い立ちも、行動も、エンテイは他の「イメージ」とは異端の存在です。
なぜこのような現象が起きたのでしょうか。実は彼、「ミーだけのイメージ」ではないのかもしれないのです。さて、これを考察するには、アンノーンというポケモンをより観察する必要がありそうです。
ヒントは、アンノーンがミーのイメージを体現する直前にあります。ミーはアンノーンの描かれた石版を手にし、その石板が輝きを見せた次の瞬間、アンノーンが召喚されました。さて、実はミーと同じようにしてアンノーンを召喚した人物がもう一人いるのです。そう、それはミーの父親、シェリー博士です。
ミーの父親として振る舞ったエンテイは、「寂しがり屋の娘を守ってやりたい」という父親の願いと、「父親に帰って来てもらいたい」というシェリーの願い、また、絵本に出て来た「エンテイ」というポケモンに対する父と娘のイメージ合わさって作られた存在である可能性があります。そう考えれば、ミーのイメージであるのにミーの予想外の動きをみせたことにも納得ができます。
しかし、そう考えると、一見自らの意思を持っていたかのように見えた行動も、じつは父親のイメージを体現した現象にしか過ぎなかったことになってしまいます。彼に心があったのかはわかりませんが、ミーを守るという最大の目的を果たせた以上、案外幸せだったのかもしれませんね。
全体を通して
とにかくコワい、怖い、恐い。
謎の結晶にとって目前の世界が浸食されてゆくことに対する生命的な危機感。これに飲み込まれたら無事ではいられないだろうという視覚的に迫って来る脅威に、防衛本能が悲鳴を上げるような恐怖を感じます。
しかし、それ以上に怖いのはアンノーンという謎のポケモン。その正体については一切がみちの領域で、これには生物としての危機感よりも、神秘的なものに対する畏敬のような、そんな恐怖を感じました。
しかし、さらに言えば、アンノーンが登場する以前からすでにコワいです。埃っぽい古城の風合いがあまりにもリアルに再現されており、無常観に迫るような精神的に微妙な領域の感性に突き刺さる恐怖を感じたね。
って何言ってんだろう。
っていうか古城ってだけで苦手だわ。コナンの『青の古城探索事件』のトラウマがまだ色濃く残っているせいだと思う。
この映画の恐怖、神秘性ってセル画だからこそ表現できるっていうのもあるのかな、と思ったり。とにもかくにも、アニメーション的(特に美術的)な表現って言うのはホントに完成度が高いので、それだけでも見て損は無い作品ですよ。