アニメとかの感想書留

Twitter「@kanso_na_kansou」https://twitter.com/kanso_na_kansou カテゴリー一覧http://animekanso.hatenablog.com/entry/2016/04/07/124605

2クール+α終了まとめ

2クールが終了時点の26話っていうところがまた絶妙に歯切れが悪かったので、とりあえずほたるメイン回が終了するまでまとめの感想を書かずにとっておきました。

そんなこんなで、まとめを書くにあたって自分の感想を読み返してみたんですけど、最初のあらすじの方で気合い入れてしまうせいか、文章の終盤に近づくにつれて息切れしてる感が半端ないですね。「これはまとめで書くからここで書かなくてもいいや」って投げやりになって実際投げてしまった感想も結構な量ありまして、その負債をどう処理したらいいか悩んでいるところです。

まあ、ここで一番書きたいことはなんといってもやはり、百合界のカリスマことウラヌス・ネプチューンについてかな。このお二方のジャッジメントに関しては、最終回の方までとっておいて、特別枠を設けて批判しようと思ってたんですよね。しかし感想を書くにあたって、このアニメを「1クール終了」「カオリナイト死亡」「聖杯出現」「ほたる登場」「正体バレ」ってな具合で区切りをつけて観るようになって気付いたんですけど、ウラヌスとネプチューンに関しては「聖杯出現」の時点でキャラ的にはもう終わってます。

まあそもそもキャラ的に始まりがあったのかどうかすら疑わしいお二方なんですけど、この二人の存在価値って大雑把に分けて以下の三つなんですよ。

 

①百合

②ナビィ

③叩き台

 

②と③の役割が潰されて、二人でイチャイチャしているしか能がないキャラに成り下がってしまったのが現状なんですね。どういうことかもっと詳しく書きましょうか。

まずは②について説明。ウラヌスとネプチューンって、「新たな敵、デス・バスターズが襲撃してきた」っていう事件にセーラームーンたち主人公を導く役割が与えられていたんですよね。物語の序盤で二人は中々の存在感を醸し出しているんですけど、ミステリアスな雰囲気と相まって視聴者に「次は何がおきるのか?」って期待を抱かせてくるからなんですよ。そういうキャラって、物語的には、彼女たちと関わることで主人公が少しずつ事件の核心部近づくきっかけになり得るんですね。

しかし実際に物語の世界を読み進めてみると、4話の時点で「敵の正体が分からない」とか明言しちゃう。かと思ったら、「敵の正体は何?」といううさぎたちの問いに「気になったら自分で調べることね」とか答えちゃう痴呆っぷり。立派だったのは雰囲気だけで、実は持ってる情報量はうさぎたちと同じで、ただのうっかり無能さんでしたっていう始末。彼女たち外部太陽系三戦士がどういった存在なのか、というそもそもの疑問をぼかすことで雰囲気ミステリアスだけは首の皮一枚で維持しているんですけど、それも28話の冒頭で特に意味も無く(←ココ重要!)ベラベラと口頭で説明されることで、完全に潰されることになってしまいました。

セーラームーンたちの知らない情報アリマス→ウラ「テメェらに教えて堪るかよ!」→(シナリオが次の段階に映る頃合いを見計らって)実はこうでした!→実は特に意味も無い情報でした→ところで、セーラームーンたちの知らない情報ア(ry  って流れ本当にやめてくれ。頼むよ神様。

さて、次に説明するのは③ですね。えっと、一応言っておきますけど、叩き台って、このブログ内での彼女たちの扱い方を称しているわけじゃないですからね。まあそういう意味も込めているんですけど。

簡単に言いますとね、物語の峠に差し掛かった際に、元気しか取り柄の無い凡骨中学生の月野うさぎの「頑張ればみんな幸せにできる」という箸にも棒にも引っかからない信念を盛り立てるために用意された、アンチテーゼという名の産業廃棄物。たたき台、っていうよりも引き立て役とか踏み台の方が適切しれないね。でもまあ、おそらくウラヌスとネプチューンがよく言ってる「誰かを犠牲にしなければならない」って言葉は、“孤高”っていうコンセプトからノリで編み出されたものだろうし、その考えの一歩先を行く考えを持つ人物としてうさぎの立ち位置が決定されたであろうことを予測すると、叩き台って言葉もしっくりくるかな。

叩き台って言葉はそもそも「検討などを経て改善するための原案」って意味なんですね。つまり、原案の素材が悪けりゃ作品のテーマのクオリティにも低く天井が設けられるってことです。各話によって言動、行動に一貫性が無い中身カラッポのウラヌスとネプチューンには荷が重すぎたんですよ。「誰かを救うには誰かを犠牲にしなければならない」とかご立派な正論を吐いておきながら、VIP席の空気を演出するために理由も無く目の前で敵に襲われている人を見殺しにするような破綻した人格者を「原案」としたところで、その対極にある上位互換の改善策って何なんだ、って話になるのは当然といったら当然です。

もう13話の時点で相当怪しい予兆はあったんですけどね。13話の自分の感想で

 

「ウラヌス、あなた怪我してるじゃないの⁉ここは私たちに任せて、逃げるのよ!!」

 

ってうさぎのセリフすら「セーラームーンたちを見捨てる非常なウラヌス」の演出のために用意されたセリフのように思えてならないんですよね。

 

「仕方なしに犠牲者を出す」ことと「他人を踏みつけにしてのしあがる」ことの区別がついてないんじゃありませんか?

 

って書いてありますけど、29話終わった現時点でも、シナリオ展開のために都合よく悪人になるウラヌス・ネプチューン、って構図は健在であります。っていうか、聖杯出現からほたるの参入のこのタイミングが、悪い意味でこの構図が一番浮彫になっているタイミングなんじゃないかなって思います。一応タリスマン出現まではうさぎが主人公していたので、一話完結の話でも盛り立て役としてウラヌス・ネプチューンという名の傭兵が雇われることがあってそれなりの存在感はあったんですけど、新キャラのほたるとちびうさの友情物語に内容がシフトすると同時に、「怪しいほたるを監視する」っていうよーわからん理由でイチャイチャしながら主人公たちを傍観しているだけの空気キャラと化してしまって、自らの存在の希薄さを証明してしまった形になってるんですね。「途中経過なんてどうだっていいや」ってキャラ作りの姿勢とシナリオの流れに歪みが生じたとき、よくもまあここまで背景と同化しきれるものだなぁと、ある意味感心してしまいます。

話を聞くと初期設定から不憫なキャラクターではあったんですけどね。原作者さんが「新キャラは百合にしてみたいんだけど」って、ゴールデンタイムのアニメ製作陣から受け入れられるか恐る恐る聞いてみたところ、案外アニメ制作サイドから乗り気でOKサインが出た、って経緯で作られたキャラなんですよ。だから、百合であることでしか存在価値を見出せない、って現状は初期設定の範疇に綺麗に纏まった形なんですね。

初めてウラヌス・ネプチューンというキャラクターに出会ったときはそれこそ憤りを感じたり腹を立てたりもしたんですけど、今は一周回って「あ~、はいはい、そちらで百合百合しててくださいね~」ってある意味寛容な心持で鑑賞することができるようになりました。だって百合を取ったら彼女たちには何も残らないんだもん。まあ、青臭い見てくれと中身の無さを評して、百合というよりピーマンとでも呼んだ方がいのかもしれませんが。

 

 

さて、口直しに、おそらく作中最もまともな描写のある土萌ほたるについて話そうかな。ほたるとウラヌスたちを比較すると、初期設定を具体的に定めるっていうことがいかに重要か意識してしまいますね。

まずはほたるの初登場の回23話についてです。ここでは風に飛ばされたちびうさの帽子を拾ったほたるが、ちびうさと友達になります。転んだちびうさの怪我をほたるは不思議な力で治してあげるんですけど、「不気味な力」「みんなも気味悪がってる」って自己嫌悪がちになるんですね。それをちびうさが「そんなことない」って否定するところから二人の友好関係はスタートします。「病弱」「複雑な家庭環境」「不思議な力」「不気味な人格」によって孤独なほたるが、ちびうさと仲良くなることで友達の暖かさを知る、って流れに自然なスタートラインになってるんですね。

24、26話はそんなほたるのキャラ設定を紹介するだけの話。

そしてほたるのメイン回は27、28、29話の三話だけになります。ほたるメイン回って「薄幸な生い立ちから暗い心境でいるほたるを、ちびうさが明るい外の世界に連れ出す」流れになるんですけど、27話は色々なところで描写が一歩足りてなかった感じ。逆に29話は色々と飛躍しすぎてしっくりこない感じ。話数的にも中間になるんですけど、28話が一話完結の型に丁度良い塩梅で綺麗に纏まってた感じかな。同じような話が反復するような構成になってると、一話でも綺麗に纏まってる話があると印象もかなりプラスの方に傾くなぁって印象です。

27、29話はどちらかと言えばマイナス印象なんですけど、28話のお陰もあってか、嫌いになりきれないんですね。「やろうとしていることが見える」っていうのかな。ウラヌス・ネプチューンが中心になる話の時に感じる、目印の無い砂漠を歩き進める途方もない絶望感みたいなのとは異質なんですね。ウラヌスたちをどう動かしたらいいのか戸惑っているであろうシナリオを観ると、こういった違いは初期設定の段階で既に生まれて来るんじゃないかな、って思ってしまいます。

 

 

う~ん、最初の方に勢いで書きたいことを書いたら、全体的な話の流れについてすっぽかしちゃってる感があるなぁ。後で見返すためにもざっと書いておいた方がいいかな。

改めて14~29話を振り返ると、殆どが説明回です。ちびうさというキャラの説明、聖杯の説明、ほたるの説明だけでざっと5話以上の尺は割いてるかな。ま、はっきりとした判断基準は無いんですけど。

そこにちびうさの友達作り回、ほたるメイン回、それと聖杯出現という変化球に、ミメットメイン回という謎の一話を挟んで一区切り、と言った感じ。

ピュアな心につきましては、1クールでは「ピュアな心とは何か」といった部分に焦点を当てられた一話完結の話が目立ちましたが、逆に2クール目からはシナリオ展開の道具と割り切られた印象があります。それについては1クールで決着済み、といった認識なんでしょうね。それにしても、17話が、2クール唯一のピュアな心回になっていることに対して、「どうしてこのタイミングで?」っていう単純な疑問が浮かんできますね。どうして?