アニメとかの感想書留

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XYZの伝説~ごめんねディアンシー

 11月03日のポケモンXYZは「XYZの伝説」ということで、その副題の通りカロス地方に伝わる伝説の紹介になりました。基本的には、昔、ゼルネアスイベルタル、そしてジガルデに出逢ったことのある青年の話を通して、三体の伝説のポケモンがどういった存在なのかを解き明かす内容になっていました。ただ、“基本的には”と書いた通り、現代のカロスの人々の認識など青年の視点から語れないものや、言葉による直接的な解説が必要な場合は、カロスの伝説を解き明かすプラターヌ博士の考えという形でナレーションによる説明が入りました。

 具体的に今回の内容を説明すると、昔々、恋仲だった青年ジャンと少女アイラがいました。しかし、破壊ポケモンイベルタルの永久を受けてアイラの方は石化。ジャンはアイラをよみがえらせることのできる、イベルタルの対となるポケモンゼルネアスを探して旅に出ます。月日は流れ、ジャンはおじさんになってしまうのですが、旅先でついにゼルネアスを見つけることができました。しかし、そのときゼルネアスは樹に姿を変えており、そんな無抵抗なゼルネアスを王様っぽい人たちがなぜか燃やし始めます(←あからさまに百害あって一利なしのことなのに、なぜ王様たちがこんな行動に及んだのかは本当に謎です。イベルタルを攻撃するならとにかく)。しかし、そこでジャンは止めようと入るのですが捕まってしまい、殺されそうに。そんなところに現われたのは、見たこともない巨大ポケモンジガルデ)でした。ジガルデゼルネアスを痛めつけた人間たちを一掃し、ゼルネアスは樹から本来の形に戻りました。ジャンはゼルネアスにアイラを助けてほしいとお願いするのですが、ゼルネアスは無視して立ち去ってしまいました(…なぜ?)。

 ゼルネアスに関しては諦めてしまったジャン。そんな彼は、かつてアイラたちと一緒に暮らし、そしてイベルタルに枯らされてしまった大地を再び豊かな土地へと戻すため、残りの生涯を費やします。しかし、一次は順調だった復興作業も、ある年の干ばつでダメになってしまいそうになります。そこに、再び青年の目の前にゼルネアスが現われました。ゼルネアスは不思議な力でみるみるうちに枯れた大地を緑豊かな土地へと変化させるのですが、アイラが蘇ることはありませんでした(…なぜ?)

歳を取って白髪頭のお爺さんになってしまったジャン。彼はアイラ像の隣で、穏やかな最期を迎えるのでした、という話。

 ここで今回の話をみた今回の私の感想は…実は嫌いじゃない。しかしお話として完成度高いかということや、あるいは、本編で登場した伝説のポケモンジガルデについて語りきれなかった設定の補足をしようという試みが成功したかということをまじまじと考えてみると…XYZらしく色々とすっ飛ばした展開になっていたり、設定面でもちょっと甘さが目立ってしまう内容にはなっていたと思います。

 しかし最終的に好きに落ち着いたのは…命の循環と秩序という無常観を匂わせる背景と、ジャンの生涯のもの悲しさがマッチしていたから、かな。アイラはそもそも、イベルタルからジャンを守って石化してしまうんですけど、ジャンの後悔みたいなものに触れられていたらもっと好きになったかも。

 

 そんな感じで、XYZ編はこれにて終了。次週からはサン&ムーンが開始します。ポケモン図鑑に入り込んで人間の言葉を喋るロトムが登場するらしいんですけど、これを聞いてサン&ムーン編は地雷だなと早くも思っております。主人公のすぐ近くにポケモンと人間の通訳がいるというのはちょっと…「そもそもポケモンって何だ?」って話になって来るじゃん?まあそれはまた今度。

 最終回記念に色々とため込んだフラストレーションをはてブで吐き出そうと思ったけど、意外と好きになれちゃった内容だったのでガスが抜けたというか、まあそんな感じです。そして、あと、ちょっとディアンシーの映画を悪く言いすぎたなと反省したんですよね。

 というのも今回の話で、XYZ(←ゼルネアスイベルタルジガルデのフォルムを表した記号で、アルファベットではないらしい。はっきりとそう言葉で説明があったけど、ポケモンの世界ではっきりとアルファベットというものの存在が示されたのは意外だった)の伝説の設定を知って、ちょっとアレを元にお話を作るのは無理かなって思ったんですよね。

 というのも、映画のお話を作る上での縛りがちょっとキツすぎると思ったんですよね。今回は番外編で、サトシたちの旅と関係のない昔話ということでちょっと暗めのお話の展開もできてましたけど、本編の方ではキャラクターの生き様のような微妙なラインの話を嫌う傾向がありますし。ディアンシーの映画は、オトボケキャラのディアンシーに対して無条件に優しくウフフオホホ気持ち悪いガールズトークを繰り返す無味乾燥な会話が友情の証みたいに描かれていますけど、これは作品全体が目指していた大きな方向性の表れだったのかもしれないですね。臭い物には極力蓋をして、雰囲気で楽しそうに盛り上げるっていう方向性。私なりにこの作品を最後まで追って見続けた結果思ったことなので、根拠は特に無いんですけど、確信はしています。

 そんな作風の中に、生命の循環なんていう哲学的な命題を背景に据えた設定をブッ込めと言われたら…私にはちょっと無理かなって思います。思いました。ディアンシーの映画のイベルタルが、ピクミンのドドロみたいって例えましたけど、むしろドドロポジションに落ち着いていただけましだったのかも、と思います。ゼルネアスならとにかく、イベルタルがお話の中心に食い込むようなことがあれば、グチャグチャになることは間違いありませんから。

 ディアンシーの映画に関しては、「やる気ねーなら映画作るな!!」…とまでは言いませんけど、そういう想いを抱えて散々文句を言ってきましたけど、今回の最終回番外編である程度思い切った内容をしていたことを受けて、映画版の製作に関しては個人の力量では変えがたい大きな流れというか、現場の常識があったんだろうなと思いました。

 まあそれでもやっぱりクソはクソだと思いますけど、その理由に関してあんまり決めつけすぎてもいけないな、と思いました。