アニメとかの感想書留

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論文を書くことと小説を書くことは似ているのではないか

先日友人と話している中で、日本語と英語の違いについての話題に移りました。

そこで出た話としては、日本人の論文は余計な情報がアリの巣のように張り巡らされていて、英国圏の人たちは翻訳するのを嫌うそうです。

英語圏(と言っても大雑把ですが)の論文とは、主張とそれを裏付ける論拠のみを書くもので、余計な情報は書いてはいけないそうです。日本人の書いた論文というのは、量が多く余計な情報も多い傾向になりがちだとかなんとか。

私自身が日本人と英国圏の人たちの論文を比較したわけではないので「その通りだ!!」と言うことはできませんが、小説や映画のストーリーに関して、英語圏のものと日本のものとでも同じ傾向がみられるなと思ったので、妙に納得してしまいました。

英語圏の映画で、そのような意味で「よくできているな~」と痛感したのは、『ハリーポッターと秘密の部屋』です。「人はどんな能力を持っているのかで決まるのではなく、どんな選択をしたかで決まるのじゃ」というダンブルドア先生の最後の台詞に代表されるテーマ性は、秘密の部屋の事件でのハリーが経験を通して非常に説得力があるものになっていたと思います。また、全編通しての謎解き要素も、真相は「マルフォイの父親がトムリドルの日記を使ってダンブルドアを退任させようとした」というシンプルなものですが、そこから起きる様々な現象がハリー視点からはまさに謎とスリルで、頭空っぽにして観ているだけでも緊張感と爽快感があり楽しかったです。

一方、日本の映画は、どちらかというと流れに任せて進んでいくようなものが多いですね。テーマ性を主張するために必要な展開と心理描写を計算して設計されているような物語はあまり観たことがないかもしれません。あくまでも個人的な感想。

一部の文芸評論家からカルト的な人気を誇る三島由紀夫の小説も、確かに文章の表現自体は才覚があるのかもしれないですが、「ストーリー」という観点からすると…まあ、あまり言ってしまうと過激派から殺されるかもしれないので黙っておきますが笑

あくまでも個人的な感想になりますが、日本の小説や映画は連想ゲーム的に描かれているものが多いような気がします。

日本と英国圏でこのような違いがあると仮定して、なぜそのような違いが生まれてしまうのか、その理由を推測してみて二つ思いつきました。

一つは言語構造の問題。

英語は合理的な言語です。たった20ちょっとのアルファベットを使い、その文字列の並びで言語を表現するという発想自体、非常に数学的だと思います。また、一文ずつのルールもはっきりしていますよね。品詞ごとの言葉の役割や、カンマの位置による意味の解釈の違いがはっきりしています。日本語の文章で「文脈から判断して」と言われるときには「文章全体の雰囲気とか意味から判断して」という意味合いで取られることが多いですが、英語の指示語の内容などは論理的に「絶対にコレしかない」と言える根拠があります。さらに、現在完了形などの、時間の関係を表すのに便利な概念が簡単に使えてしまいます。

She has come back to Japan.

というと「彼女は日本に帰ってきて今現在日本にいる」という意味になります。自然な日本語に直すと「彼女は日本に帰ってきた」になりますが、これでは話題に関係ない昔の話なのか今と関係がある話なのか判断できません。

色々書きましたが、英語が優れているというのはなく、特徴の違いです。英語という言語を使う限り、無意識にも言語構造に伴う思考様式を使う人間はしているのです。”明晰”という言葉が似合う、白黒はっきりさせることを好むような言語なので、その言語使って考えた小説もまた、数学的な設計のされ方をするのかなと思います。

また、もう一つの思いついた理由としては、宗教の問題。

日本の小説や映画は”テーマ性”という最終的に描くべき着地点が無いものが多いように見えます。その理由として考えたものが、宗教の違いです。

カトリックの聖書について、私は、それを一文も読んだことが無い人と比べると知識はありますが、知っている人からすると、知らないレベルです。

そんなレベルで分かったような口を利くのも恥ずかしいのですが、聖書に書いてある”昔話”って、かなりテーマ性が強いんですよね。それは「人間は○○とあるべき!!」というような命令ではなく、過去にいつか誰かが経験した苦しみなどが描かれており、それが教義的にどういった解釈を持つのかという判断は各々が考えます。

こういった、人生哲学の教材となるようなものが、生活の中で存在しているかしていないかでも、思考様式は変わってくるのかなと思います。

 

アレコレ書き、英語をほめたたえるような内容になりましたが、必ずしも英語の方が勝っていると思っているわけではありません。あくまでも、特徴の違いとしてこういう理由があるのかな、というレベルの話です。

また、英語圏の小説なり物語が”正しい”という風にも思いません。それがもし、日本で受け入れられないのであれば、日本で求められている形の小説なり物語というモノがあるはずです。簡単に言ってしまうと、読者はかならずしも物語の中に論理性を求めているわけではないということですね。

私個人としてはそういうものがあったほうが楽しいと感じます。しかし、私が楽しいから全員が楽しい、というわけではないんですね。人間、同じように手や足を持っていますが、考えていることやその前提となっている者がまるきり違うことなんて、よくあることです。自分の中の「当たり前」を押し付けるのは良くないなと思います。

兎に角歌が多いインド映画を「悪い」とも言えないですしね。

 

では。