アニメとかの感想書留

Twitter「@kanso_na_kansou」https://twitter.com/kanso_na_kansou カテゴリー一覧http://animekanso.hatenablog.com/entry/2016/04/07/124605

ポケモン映画感想 ポケモンレンジャーと蒼海の王子マナフィ

 劇場版ポケットモンスター7作目。まだアドバンスジェネレーション時代の映画なので、旅のメンツはサトシ・タケシ・ハルカ・マサトの7人です。

 本作はタイトルの通り、マナフィを中心に物語が展開していくことになります。

 旅の途中、偶然にもマナフィの卵が孵る瞬間にハルカが遭遇してしまい、マナフィに親と間違えられてしまいます。そんなマナフィを故郷の海へ返すために、海賊たちから彼を守りながら海中の宮殿へと送り届けるのですが、マナフィもハルカもお互いの別れが辛くなってしまって…というお話。

 感想は…物語の本筋の方に関しては、良い意味でも悪い意味でも感動することはありませんでしたが、お話の舞台が綺麗に纏まっているところが一番好きでした。まあ、この感想自体、ひねくれた見方をしてしまえば「特筆すべきことが無いから舞台背景を褒めざるを得ない」とか「ここ十年近くのポケモン映画との対比で良く見える」と捉えることもできるのですが、そこまで嫌いじゃないです。一理はあるんですけどね。

 一番好きに思えたところは、敵が海賊、というところですね。ポケモンの映画の敵役って、ポケモンハンターや盗賊が大暴れするのが定石でして、海賊もその設定の延長線上にあるのですが、物語の進行上で不自然さを生み出していないのがかなり好印象でした。

 最近、と言っても第一作の映画からそうなんですけど、ポケモン映画では「世界征服を企むような悪者の野望を阻止する」っていうのがお決まりのパターンなんですね。しかし、チアサキッズの変身ヒーロー・ヒロインならとにかく、ポケモンの世界において一介の、しかも通りすがりのトレーナーに過ぎないサトシたちの身の丈を考えると、無理があるような気がします。そう言う意味で、本作の「海賊からお宝を守る」くらいの波乱は丁度いいスケールで描かれていたように感じました。

 しかし、結論から言えば、サトシたちは海の神殿を海賊から守ったことになり、従来の「通りすがりのトレーナーが大きなものを守る」っていう展開を繰り返していたことになりますが、人間やポケモンの命が係わるような問題ではなかったため、そこまで重い展開に感じることもありませんでした。

 本作の敵、海賊王のファントムさんは、岩を生身で持ち上げるような馬鹿力を発揮する人物なのですが、最後の最後に「馬鹿力の正体は、服の下に強化スーツを仕込んでいたから」というネタ明かしがあります。こういったお茶目な一面からも、ライトな作中の雰囲気が感じられますね。

 また、マナフィにも好感を持てるキャラ設定だったと思います。簡単に言うと、海のポケモンたちと心を通わせることができる能力。「蒼海の王子」という言葉がしっくりくる能力ですね。溺れかけているサトシにハルカからのメッセージを伝えたり、潜水艦の超音波で混乱しているポケモンたちを正気に戻したり、カイオーガを操ったりと、作中で活躍する機会もたくさん与えられていて、魅力十分でした。

 しかし、この映画にも、好きになれないキャラクターはいます。

 ハルカです。

 「近いうちにマナフィと別れなければならない」ってことが分かりきっているのに、「マナ、カモ、好き」(←マナフィはハルカを好き、という意味。ハルカは「~カモ」というのが口癖なので、それを覚えたマナフィはハルカのことを「カモ」と呼んでいます)という言葉を覚えさせるハルカは、はっきり言って我儘な女に見えました(笑)海の神殿、つまりマナフィの故郷が沈むかもしれないっていう瀬戸際で、サトシに問題を全部丸投げしたのも悪印象。マナフィを愛しているというよりは、マナフィをゲットしたいように見えたのは私だけでしょうか?

 物語の本筋に関しては良い意味でも悪い意味でも感動することは無かったと書きましたが、ハルカとマナフィの親子設定に全く感情移入できなかったことが一番の原因カモ

XYZの伝説~ごめんねディアンシー

 11月03日のポケモンXYZは「XYZの伝説」ということで、その副題の通りカロス地方に伝わる伝説の紹介になりました。基本的には、昔、ゼルネアスイベルタル、そしてジガルデに出逢ったことのある青年の話を通して、三体の伝説のポケモンがどういった存在なのかを解き明かす内容になっていました。ただ、“基本的には”と書いた通り、現代のカロスの人々の認識など青年の視点から語れないものや、言葉による直接的な解説が必要な場合は、カロスの伝説を解き明かすプラターヌ博士の考えという形でナレーションによる説明が入りました。

 具体的に今回の内容を説明すると、昔々、恋仲だった青年ジャンと少女アイラがいました。しかし、破壊ポケモンイベルタルの永久を受けてアイラの方は石化。ジャンはアイラをよみがえらせることのできる、イベルタルの対となるポケモンゼルネアスを探して旅に出ます。月日は流れ、ジャンはおじさんになってしまうのですが、旅先でついにゼルネアスを見つけることができました。しかし、そのときゼルネアスは樹に姿を変えており、そんな無抵抗なゼルネアスを王様っぽい人たちがなぜか燃やし始めます(←あからさまに百害あって一利なしのことなのに、なぜ王様たちがこんな行動に及んだのかは本当に謎です。イベルタルを攻撃するならとにかく)。しかし、そこでジャンは止めようと入るのですが捕まってしまい、殺されそうに。そんなところに現われたのは、見たこともない巨大ポケモンジガルデ)でした。ジガルデゼルネアスを痛めつけた人間たちを一掃し、ゼルネアスは樹から本来の形に戻りました。ジャンはゼルネアスにアイラを助けてほしいとお願いするのですが、ゼルネアスは無視して立ち去ってしまいました(…なぜ?)。

 ゼルネアスに関しては諦めてしまったジャン。そんな彼は、かつてアイラたちと一緒に暮らし、そしてイベルタルに枯らされてしまった大地を再び豊かな土地へと戻すため、残りの生涯を費やします。しかし、一次は順調だった復興作業も、ある年の干ばつでダメになってしまいそうになります。そこに、再び青年の目の前にゼルネアスが現われました。ゼルネアスは不思議な力でみるみるうちに枯れた大地を緑豊かな土地へと変化させるのですが、アイラが蘇ることはありませんでした(…なぜ?)

歳を取って白髪頭のお爺さんになってしまったジャン。彼はアイラ像の隣で、穏やかな最期を迎えるのでした、という話。

 ここで今回の話をみた今回の私の感想は…実は嫌いじゃない。しかしお話として完成度高いかということや、あるいは、本編で登場した伝説のポケモンジガルデについて語りきれなかった設定の補足をしようという試みが成功したかということをまじまじと考えてみると…XYZらしく色々とすっ飛ばした展開になっていたり、設定面でもちょっと甘さが目立ってしまう内容にはなっていたと思います。

 しかし最終的に好きに落ち着いたのは…命の循環と秩序という無常観を匂わせる背景と、ジャンの生涯のもの悲しさがマッチしていたから、かな。アイラはそもそも、イベルタルからジャンを守って石化してしまうんですけど、ジャンの後悔みたいなものに触れられていたらもっと好きになったかも。

 

 そんな感じで、XYZ編はこれにて終了。次週からはサン&ムーンが開始します。ポケモン図鑑に入り込んで人間の言葉を喋るロトムが登場するらしいんですけど、これを聞いてサン&ムーン編は地雷だなと早くも思っております。主人公のすぐ近くにポケモンと人間の通訳がいるというのはちょっと…「そもそもポケモンって何だ?」って話になって来るじゃん?まあそれはまた今度。

 最終回記念に色々とため込んだフラストレーションをはてブで吐き出そうと思ったけど、意外と好きになれちゃった内容だったのでガスが抜けたというか、まあそんな感じです。そして、あと、ちょっとディアンシーの映画を悪く言いすぎたなと反省したんですよね。

 というのも今回の話で、XYZ(←ゼルネアスイベルタルジガルデのフォルムを表した記号で、アルファベットではないらしい。はっきりとそう言葉で説明があったけど、ポケモンの世界ではっきりとアルファベットというものの存在が示されたのは意外だった)の伝説の設定を知って、ちょっとアレを元にお話を作るのは無理かなって思ったんですよね。

 というのも、映画のお話を作る上での縛りがちょっとキツすぎると思ったんですよね。今回は番外編で、サトシたちの旅と関係のない昔話ということでちょっと暗めのお話の展開もできてましたけど、本編の方ではキャラクターの生き様のような微妙なラインの話を嫌う傾向がありますし。ディアンシーの映画は、オトボケキャラのディアンシーに対して無条件に優しくウフフオホホ気持ち悪いガールズトークを繰り返す無味乾燥な会話が友情の証みたいに描かれていますけど、これは作品全体が目指していた大きな方向性の表れだったのかもしれないですね。臭い物には極力蓋をして、雰囲気で楽しそうに盛り上げるっていう方向性。私なりにこの作品を最後まで追って見続けた結果思ったことなので、根拠は特に無いんですけど、確信はしています。

 そんな作風の中に、生命の循環なんていう哲学的な命題を背景に据えた設定をブッ込めと言われたら…私にはちょっと無理かなって思います。思いました。ディアンシーの映画のイベルタルが、ピクミンのドドロみたいって例えましたけど、むしろドドロポジションに落ち着いていただけましだったのかも、と思います。ゼルネアスならとにかく、イベルタルがお話の中心に食い込むようなことがあれば、グチャグチャになることは間違いありませんから。

 ディアンシーの映画に関しては、「やる気ねーなら映画作るな!!」…とまでは言いませんけど、そういう想いを抱えて散々文句を言ってきましたけど、今回の最終回番外編である程度思い切った内容をしていたことを受けて、映画版の製作に関しては個人の力量では変えがたい大きな流れというか、現場の常識があったんだろうなと思いました。

 まあそれでもやっぱりクソはクソだと思いますけど、その理由に関してあんまり決めつけすぎてもいけないな、と思いました。

『サトシとラストバトル!セレナの選択』 感想

 今日はアニポケの感想。と言っても今日放送分の内容についてじゃなくて、主に先週の内容について。結論としては先週の内容はスゴくよかったってことに落ち着くんですけど、その前にポケモンXY編について思い入れを語ろうかな。いいきっかけなのでね。

 

 私はアニポケのXY編は途中から観始めたんですね。というのは、長年アニポケを追い続けている方はご察しがつくと思うのですが、BWの時代を経てアニポケに対しての期待が限りなくゼロに近付いたからです。主人公なのに完全空気キャラのサトシ、「子供ね~」と取り敢えず言わせられるだけのアイリスに、「テイスト」「テイスト」ってマスコットキャラの語尾のようにしつこく繰り返す以外に特徴らしい特徴が描かれないデント、シリアス路線とギャグ路線の狭間を渡り歩く情緒不安定のロケット弾など…BWがヒドいとはよく言われていること(?)だとは思うんですけど、具体的にその事例を語り始めたら枚挙に暇がありません。

 私はアニメ、というかドラマ全般を鑑賞するときは、キャラクターに対してどれほど真摯に向き合っているのかっていうところに重点を置いてみるんですね。人それぞれに物語の楽しみ方があるので、「キャラクターの心情なんてどうでもいいんだ、設定の壮大さが物語の醍醐味なんだ」って考える人が居ても私は全然OKです。お話として連続性の無いその場しのぎの一発ネタで人気を稼ごう、ってノリのアニメがあってもいいと思います。でもね、物事には最低ラインってものがあるんだよ!!

 私はできれば、キャラクターの心理描写とかにはこだわってほしいと思っているんですけど…まあそこに重点を置かないにしても、最低限キャラクターの特色や役割が示されていないと、本当に観ていて辛いです。出来の悪いアニメを観ていて感じる「辛い」という感情にも憤りとか興ざめとか色々な種類がありますけど、BW編については「退屈で視聴するのが苦痛」という意味で辛かったです。一度観始めたアニメなので最後まで完走はしよう、最後まで観ないと得られない結論があるかもしれない、そう思い修行のように追っていた時期もありましたが、心が折れてしまいました。

 そんな経緯を経てXY編の放送が開始しました。ネットでチラホラ「ストーリーが凝っている」と噂を聞いていたのですが、比較論法でまともに見えるだけでどうせ見るだけ時間を浪費するんだろうな、と観る前から半ば諦めていたんですね。そんなときにちょっとした機械があってディアンシーの映画を鑑賞したんですけど、これもまた酷い内容。ただひたすらに物語として退屈で、映画館で、おそらくポケモンを受け取るために映画券を買ったのであろう小学生が「あー、やっと終わった!!」ってため息交じりに行っていたのが本編よりも印象的でした。

 ディアンシーの映画は、私の心の片隅に残っていたポケモン熱を完全に冷ます結果となりました。

 しかし、放送時間が個人的なライフサイクルに噛合っていたこともあって、結局はアニメ本編の方はこの映画を機に視聴してみることにしたんですね。勿論、何も期待はしていなかったけど。しかし、DPも映画は酷いけどアニメ本編は好きだったし、決めつけることはよくないなって思ったんですよね。帰宅してきたばかりの時間帯でニュース番組を見るのもかったるいし、適度なリラックス材料として観てみるのも悪くないかなって思いました。悪い言い方をすると「頭を使わない(ように割り切って鑑賞しようと思う)アニメ」なんですけど。

 結論から言うと、あくまでもBWと比べてのことだけど、良くなったと思いました。BWと違って、一話完結のお話の起承転結の定型文は完成されていたので、ストレスが溜まることはありませんでした。映画もズルズルと惰性で他二編も鑑賞してしまいましたけど、ディアンシーの映画は特別に酷かっただけで、それぞれ気合いを入れているところがあって楽しめたかな。フーパの映画は伝説のポケモン祭りをしようって意気込みを感じられたし、マギアナも頑張って感動物語を作ろうって気持ちは伝わって来た。この二つの映画は、全く別方面から攻めたのも好印象だったかな。毎年馬鹿の一つ覚えみたいに同じことやられてもなぁとは常々思っていたので。あ、毎年同じような雰囲気のお話を作るのが悪いって言っているわけじゃないですよ。ポケモン映画らしい持ち味っていうのが確立されているならば、そこは譲らずに毎年引き継ぐのも一手だと思います。けど、アニポケってどの時代も方向性が見えてない手探りの状態で作っているみたいなところがあるので、どうせなら思い切って挑戦してほしいなと。

 一方、アニメ本編の方は…ダメダメっすね。まあ、何が一番ダメだったかというと…やはり個人的にはサトシがリーグで敗退したことでしょうか。え?サトシをリーグ優勝させたら続編を作れないから仕方ないって…?

 

 ホントに?

 

 まあ毎シーズン疑問には感じていたんですけど、そもそもポケモンリーグって優勝してどんな良いことがあるんでしょうかね?サトシはポケモンマスターになるって夢がありますけど、リーグ優勝者=ポケモンマスターなのかって部分はかなりぼかされていますし。ポケモンコンテストやポケモンパフォーマンスのように、その大会に優勝することがある業界に入るための登竜門になっている、というならリーグ優勝することにも意味が見いだせるんですけど、歴代のリーグ優勝者はトロフィーを受け取った以降の活躍が描かれていないため、そこら辺の事情もかなりあやふやになっています。

 ここで、そんな疑問に終止符を打ってくれたのがアラン選手でした。アランはサトシに打ち勝って優勝し、彼の目指していた「最強になる」夢を果たしました。そんな彼に待っていた未来は…旅に出る前に手伝っていたポケモン研究所に戻ること。つまり、ポケモンリーグに優勝しても、彼の日常には何の変化も訪れなかったことになります。

 だったらサトシを優勝させてやれよ。

 っていうかサトシゲッコウガってなんだったんだよ。何のために登場させたんだよ。「二人が力を合わせることでどんな困難も乗り越えられる」みたいなこと言っておきながら負けさせてんじゃねーよ。っていうかアランがサトシのライバルみたいにいつの間にかなってたけど、アランってそもそも旅先でばったり出会う強いトレーナー以上でも以下でもなかったじゃねーか。短パンこぞうみたいな扱いをしておきながらライバルとか、わけわかんねーよ。っていうかサトシがアランに負け続けたのって、最終的にサトシに勝たせるための布石じゃなかったのかよ。ホント、今までの旅はなんだったんだよ…。

 サトシゲッコウガはこのアニメの闇です。

 散々「カロスの平和を守る」みたいな伏線が張られてれていたのに、そのカロスの危機も、サトシゲッコウガじゃないと救えない危機っていうわけじゃなかったし。ついでに言うと、「ロケット団がカロスを危機から守る重要な役割を果たす」っていうことも語られていたけど、TV中継でクライシスを中継することのどこがカロスの平和を守ることだって?まあ一応フレア団との戦闘はしていたけどさ…。またまたついでに言うと、シトロンとロボットの友情物語とか要らねーんだよ。降板させるために人格の宿ったロボットコロしてんじゃねーよ。っていうかポケモンなんだから、ポケモンとの友情物語を描けよ!!

 まあそんなこんなで、酷いです。ホント、酷いです。一番お話として売りにしていた部分が一番ヒドいです。

 しかし…キャラクターバランスは良いなって思ってしまったんですよね、カロス組って。ヒロインのセレナがバトルに関して全くダメダメ(←これもまたついでに言うとさ、カロスの危機編でフレア団の攻撃をテイルナーがかえんほうしゃで迎撃するんだけど、それをみていたマロンっていう女の子に「セレナ、スゴい!」って台詞言わすんですよ。夢を追いかける、バトルに関しては素人の女の子って描写を徹底しておきながら、ここでこういうアピールをする意味が分からない)。これも、バトルバカのサトシの良い引き立て役になっていたかな、とは思いました。シトロンもなんでもありなトロニックマシーンなるものをよく開発するんですけど、狂言回しというか、お話の中にいい変化球を与えてくれいたとは思います。

 まあ、「サトシの引き立て役」って書いた通り、見る人によってはセレナって役立たずなんですよね。前半で夢を見つけることが彼女のテーマになっていたので、戦力にもならない上に目的も無い、80%くらい空気キャラでした。ディアンシーの映画では、なんか突然サイホーン牧場が登場させる(←セレナはサイホーンレーサーとしての素質が抜群という設定があります。)ことくらいでしか役割を与えられないレベルの空気キャラです。しかし、要所要所の場面では丁寧な描写のあるキャラクターなんですよね。「ママの言う通りの進路を歩むのが嫌だ」っていう自分の気持ちに気付いた上で本当にやりたいことを見つける展開や、ちゃんと自分の気持ちをママに伝えて説得する展開も描かれていました。ただ他人に影響されて、きらびやかな世界に憧れて始めたポケモンパフォーマンスの世界だったけど、自分で「たくさんの人を楽しませたい」っていう新しい目標を見つける展開も、彼女の成長をよく表していたかなと思いました。

 ここで、ようやく本日の本題に入るのですが。

 先週の内容は、今までのセレナの集大成だったかなと思います。めちゃくちゃになった街の人たちに、「笑顔にさせたい」と言ってボランティアのポケモンパフォーマンスを企画するセレナは彼女の新しい目標を見せてくれましたし、(途中描写は無いけど)彼女が成長した証だと思います。娘のパフォーマンスをする姿を見てアクトレスとしての娘の成長を自慢に思うママだったけど、プラターヌ博士からセレナが企画したお祭りだということを教えて貰って、思っていた以上に成長していた娘の姿にビックリするところも、なんかいいなと思いました。しかしまだ頼りないところもあって、今後の進路という重大なことついてはママに頼って相談してしまうのも、良い信頼関係に築かれた親子関係だなと素直に思いました。「悩んでいるときはポケモンバトル」って言ってセレナを励ますサトシも、セレナの憧れの人として美味しい立ち位置だったと思います。セレナが、ポケモンパフォーマンスのお偉いさんのヤシオさんからの「一緒に来ない?」という誘いを断るシーンも、彼女の決意を表している良いシーンだなと思いました。「ホウエンに行ってポケモンコンテストを体験してみない」と提案し「今度私にパフォーマンスを見せて。私、あなたのファンなのよ」って励ますヤシオさんはいい先輩としてキャラが立っていたと思います。

 なんか、派手な演出も意表を突くような展開も全然ないんですけど、これまでのお話の流れを汲み取って一つ一つ丁寧に決着をつけてくれたので、私は本当に満足です。久しぶりに、アニメを観て心が温まるなと思いました。

 この記事内でも散々批判をしたポケモンXY編。まだまだ言い足りない批判もたくさんありますよ。しかし、一人でも好きになれるキャラクターができて、また、強烈に好きな話が一つ二つあったので、視聴し続けて良かったなと思いました。

劇場版ポケットモンスター感想<ボルケニオンと機巧のマギアナ>

恒例のポケモン映画鑑賞会。そして例年通りのポンコツ映画。

しかし言っておきたいのは、決してつまらない訳ではありませんでした。まあ、よくわかんない爆発機械オチとか、多すぎるストーリーの矛盾点とかは恒例行事としてしっかり引き継がれてはいたんですけどね。

ゆえに今一つ、というか全く感情移入できなかったわけなのですが…結構面白いと思ってしまったんですよね。それは何故か。この映画オリジナルのアイディアが面白かったんですよ。例えば作中、ポケモンを強制的にメガ進化させ従わせるメガストーンが登場するんですけど、本編のメガストーンという世界観を広げた面白いアイディアだと思いました。ただ、悪者の目的を達成するための手段として活用されるのみで、それ以上の広げ方をされていなかったのが残念だったと思いました。

タイトルにもなっているマギアナなんですけど…このポケモンも、人間が一から創り出したという、これまでのポケモンとはちょっと違った生い立ちのポケモンでした。生き物らしい鳴き声とかを発することは無いし、声の替わりに発せられる機械音はピロピロと単調なパターンなんですけど、仕草とかその他もろもろの感情表現が細かくて素直にかわいいなと思いました。ただ、マギアナの隠された秘密、彼女(?)の心が宿っているソウルハートという石(?)は飛行石でした、というオチ。まあそれは予想通りです。それ以外の秘密は特にありませんでした。作中「マギアナの心が宿っている」と言われていたんですけど、どうやってこの石が誕生したのかということについて言及されているとより面白くなるんじゃないかなと思いました。ポケモンを機械のように言いなりにしてしまうメガストーンと、カラクリ人形をポケモンにしてしまうソウルハートは対極な性質なものなので、ソウルハートの生みの親エリファスの思いとかと絡めつつその設定を掘り下げたらもっと面白くなったんじゃないかなと思います。

それと、これもまたタイトルになっているボルケニオンというポケモンなんですけど…このポケモンも「人間は信用できねぇ」って耳に胼胝ができるくらい作中で言いまくるんですけど、どうしてボルケニオンが人間嫌いになったのかということについては一切言及無し。ポケモンたちの楽園で、人間たちに傷つけられたポケモンたちの兄貴分的な存在なんですけど、山の仲間たちが傷つけられたから嫌いになったのか、それとも個人的に裏切りにあったからなのかは不明。「人間は嘘を付くけどポケモンは嘘を付かない」という彼の印象的な台詞があるんですけど、それがボルケニオンの個人的な体験から発せられた台詞なのかは作中明かされることはありませんでした。おそらく尺が足りなかったのではなく、単純に考えていなかっただけだと思われます。最終的にサトシを信頼するというラストに持って行くなら、ボルケニオンの人間不信のメカニズムはもっと深く掘り下げて、ボルケニオンの視点から「サトシは自分の知っていた人間とは違う」って思わせる展開に納得が生まれるものにするとよかったのではないかと思いました。

物語の舞台となるアゾット王国も、カラクリ仕掛けの王国という設定で、かなり具体的な特色のある街だと思いました。しかし、作中では、神秘科学の大家エリファスの故郷であり、そこに破壊兵器が眠っているという設定が説明されるだけで、他にアイディアの広がり方が全く見えませんでした。いや、物語的な役割としてはそれで十分と言ったら十分かもしれないんですけど、かなり凝った背景絵で面白い街なのに、最初と最後以外全然登場しないんですよ。基本的にサトシたちは、アゾット王国とネーベル高原を繋ぐ道を移動しているだけなので、映画全体の印象としても、カラクリというキーワードは印象に残りにくいものになっていました。純粋に勿体ないと思いました。

 

 ラケル王子

 カラクリの王国、アゾット王国のラケル王子にはジャービスという科学者がいました。ラケル王子はジャービスに騙される形でマギアナからソウルハートを抜き取ってしまうのですが…正直、この展開要らなくね??別にジャービスラケルの力なんて借りなくても終始悪事を働くことなんてできたよね?

 ラケルの成長物語が描かれているならまた別問題になって来るんですけど…ラケル王子は肝心なところではずっと眠っていて、破壊要塞を爆発させる直前に、バルブを回すための力仕事を手伝うという活躍しか見せませんでした。

 ・・・

 まあ、ぶっちゃけ、声優さんをゲスト出演させたいだけだったよね、っていう。

 でも、ゲストキャラはゲストキャラとしての活用のさせ方はあると思うし、こんな物語の根幹にかかわるところに登場させておいて、描写が投げやりって一体何を考えているんだ。

 個人的な意見。ラケル王子を中心に物語を展開した方が面白くなったんじゃないかなって思わないでも無かったり。

 ラケル王子は小さいころからカラクリが大好きで、ジャービスの勧めで神秘科学の大家のエリファスの研究に特に興味を抱いているキャラクターなんですけど、この人、アゾット王国、アゾット王国に献上されたカラクリポケモンマギアナ、エリファスなど色々な設定の中心に関わる人物な訳ですし。「間違いを認めて前進する」って物語的にも主軸がしっかりしたものが作れそうですし。

 サトシたちにはキミア王女というラケル王子のお姉さんが味方に付くことになり、物語の設定を色々と教えてくれるキャラではあるんですけど…ラケル王子を中心にした方が、便利屋フェアリーとして以外の役割も担えそうなキャラだったのになあと残念に思うところではあります。

 

ラピュタ

 破壊要塞が予想以上にラピュタで笑いました。しかしその破壊力は、ネーベル高原の温室育ちのポケモンたちに一致団結されて防がれる程度の攻撃力です。

 破壊要塞を爆破する直前に「私は研究室に閉じこもりっぱなしで」(←ここまではいい)「けっかジャービスに騙されることになった」というトンデモ理論がラケル王子の口から展開され、サトシはそれに対して「ポケモンたちと旅に出た方がいいと思うぜ」という謎のアドバイスを投げかけます。そういうラストにするなら、ネーベル高原を守ろうとするポケモンたちの底力に感銘を受けるシーンとかあってもよかったんじゃないかと思いました。

たまには更新3~「エルvsセレナ! 開け未来への扉!!」

 割と突拍子もない内容を書く「たまには更新」シリーズ(?)のことだから、またいつかのように非公開にするかも

 流石に一月全く更新をしないと、ブログに対して怠惰になりすぎてしまう予感がしたので、更新。今日のアニポケの内容がすっごく自分好みだったから急に感想書きたくなったってのもあるんだけどね。

 というわけで・・・

 

「エルvsセレナ! 開け未来への扉!!」感想

なんの前触れも無くアニポケの感想。あらすじと分けて書いた方が読みやすいかなって思ったんですけど、今日は気楽に行こうかなって。

今日はポケモンパフォーマンスマスタークラスの予選決勝戦からスタート。手を怪我しているセレナはそのせいで身体のバランスを崩して失敗しかけるんだけど、ニンフィアに助けてもらう形で無事フィニッシュ。ニンフィアっていうポケモンは以前ダンスを失敗した経験があるからこそ、セレナをフォローすることができたんでしょうね。そんなこんなで、セレナは見事予選でナンバーワンに輝くことができました。

そして場面は変わって控室に。怪我をしているセレナに矢代さんっていうスゴく日本人っぽい名前のおばさんが「ファイナルステージは休みなさい」って忠告するんだけど、セレナは「諦めたくない」と言って出場。結局、カロスクイーンのエルに敗れてしまうんだけど、最終決戦の中、セレナはエルの演技を見て「皆に笑顔を貰うパフォーマンスじゃなくて笑顔を与えるパフォーマンスをしたい」っていう結論を導き出す。

エルはセレナの憧れでっていうのは以前からそうで、セレナはエルの演技を観るのは一度目じゃないのにこのタイミングでそういう結論を導き出すことができたのは、ただエルに対する憧れだけじゃなくて、旅の中で夢を実現させるための強い意志を培ったお陰でしょうね。前回のステージが終わったとき、矢代さんがセレナに「あなたにはクイーンとして絶対的に足りないものがある」って謎かけをしたこともこの答えを出すためのきっかけになったのは確かですけど、結論はセレナが旅の経験を元に導き出しだしたものです。

前回矢代さんがセレナに「あなたにはクイーンとして絶対的に足りないものがある」謎かけをしたときに、私は「いやいや、思わせぶりなこと言ってないで教えてやれよ」って思ったりもしたんですけど、これはセレナ自身が自分の力で気付かないといけないことだったんですね。

最終的には、矢代さんがセレナにパフォーマンスを教えるために自分について来ないかと提案するんですけど、セレナが今は仲間たちとの旅を最後までやりとおしたいっていう形で断りました。で、矢代さんは、旅が終わったら連絡を頂戴と言って、めでたしめでたし。

XY編が終わるまではセレナはレギュラーとして登場させないといけないっていう大人の事情があるから、今後のセレナの扱いをどうするんだ、って心配に思うところがあったんですけど、これもまた上手くまとめてくれました。色んな人たちからたくさんの事をおしえてもらったサトシとの旅を中途半端にさせたくない、っていうのは旅の中で夢を磨いたセレナらしい気持ちと対立しませんね。また、サトシとの旅が終わった後の目標も定めてくれたので「成り行きで解散」という事態は避けることができそうです。セレナならきっと大丈夫、って思えるような別れになってくれるといいな~。

というわけで、ポケモンXYセレナ編完。

 正直言って、セレナってあんまり好きなキャラじゃなかったんですよね。家を出たいっていう単純な動機でサトシとの旅を決めたところは、私も共感できるような等身大の気持ちで好ましく思ってたんですけど、セレナがポケモンパフォーマンスに参加を決めるところまでが、サトシの旅のお荷物って印象の方が強かったんですよ。かわいいけど、ろくに活躍しないし個性も際立っているわけじゃないし。死にキャラだなって思ってたんですけど、今回の話を観て、それも含めて夢までの回り道だったのかなって思うことができるようになりました。好感度、はなまる急上昇。まとめ方って大事。

 

※矢代さんじゃなくてヤシオさんらしい・・・

劇場版ポケットモンスター 結晶塔の帝王 ENTEI

劇場版ポケットモンスター第三幕。作画監督が香川久さん、ということで、セーラームーンS繋がりでこの映画を鑑賞しました。実は、以前に観たことがあるのですが、内容は殆ど覚えていなかったりしたので、殆ど初見状態です。

 

 

あらすじ&感想

遺跡にて

シェリー博士は娘のミーに絵本を読み聞かせています。世の中には、まだ見たことのないポケモンがいる、そしてその中でも自分はアンノーンと呼ばれるポケモンを探していることを話しました。

博士はアンノーンを求めて砂漠の中の遺跡まで赴きます。そこで目にしたのは、箱に入ったアンノーンの石版の数々。石版が不思議な力を発揮すると、博士は不思議な空間へと飛ばされてしまいます。

博士のすぐ側にいた助手はアンノーンの出現に気付くことはできず、結局、博士の失踪は謎に包まれたままなのでした。

 

ミーの寝室のおもちゃがかわいいですね。ドンファンの滑り台とか要らないけど欲しい。昔のポケモン映画って割と毎回ポケモンをモチーフにしたおもちゃが出てきますけど、ポケモンの特徴をとらえていてクリエイティブです。

メールのパソコン受信画面でポッポが手紙を加えて飛んでくるんですけど、懐かしのポストペットを思い出しました。

さて、父親を失ったミーはどうなるのでしょうか

 

 

ひとりぼっちのミー

ミーは白の使用人から、父親が失踪したことを告げられます。父親の替わりに残ったものは、わずかな父親の持ち物と、アンノーンの石版。

寂しさを感じるミーに石版が反応すると、アンノーンが異次元(?)から召喚されました。すると、不思議な結晶に室内が包まれます。

エンテイの本を取り、父親の帰還を望むミーの前に、エンテイが現れました。ミーは父親がエンテイになって帰って来たと勘違いしてしまいました。

 

オープニング

サトシがポケモンバトルするだけです。

失踪したシェリー博士がオオキド博士の教え子であること、そして、シェリーが結晶化したグリーンフィールドの中にいることが判明します。

 

バトルシーンは、今のポケモンのように躍動感に溢れた動きを見せような派手なアクションは見られないんですけど、仕草にポケモンという生き物らしい特徴が感じられたりして、また違った見どころがあって、それもそれで味が出ていますよ。チコリータが足にサトシのすり寄って行くのがちょっとかわいいな、と思ったかな。

 

グリーンフィールドにて

サトシたちがグリーンフィールドに行くことになるのですが、そこは既に、謎の結晶に包まれたグリーンフィールド。

シェリー博士がオオキド博士の教え子であること、そしてミーに母親がいないことが説明されて、オオキド博士とサトシのママがグリーンフィールドへ向かいました

 

ママ

さっきマサラタウンで会話していたばかりのママさんたちが、もうグリーンフィールドに到着します。

ママが欲しいと言ったミイの願いをかなえるために、エンテイはサトシのママに催眠術を掛けて連れ去らうのでした

 

ずっと一緒→このまま…→ママを助けに→結晶塔の中へ

内容は大体副題通り。ミーは現状に満足して、ミーの創造の世界が広がって行くのに快感を覚えて、エンテイがそんな幸せな空間の現状維持に四苦八苦します。

 

気になったのはみんなの声が若いことかな。サトシもかなり若いんですけど、ソーナンスが予想以上の若さで笑ってしまった。

 

タケシVSミー→カスミVSミー

ポケモンバトルしたい、っていうミーの願いで、ミーは大人の姿になってカスミとタケシに勝負を挑みます。

 

まぼろし?

サトシとママが、ミーに現実の世界に戻るように説得します。ミーは受け入れられずに拒否。

 

リザードンVSエンテイ仲間

幻の世界からミーを取り戻すため、サトシがエンテイと戦います。絶体絶命のピンチのところにリザードンが現れて助けてくれます。

しかし、リザードンでも敵わず負けてしまうのですが、エンテイが止めを刺すのミーが止めます。サトシ、タケシ、カスミ、ママの優しい説得を受けて、ミーは現実世界にも目を向けるようになりました。

 

脱出→最後にできること

アンノーンが暴走しました。エンテイは、自らの存在が消えることを覚悟のうえで、ミーを助けました。

 

本当のグリーンフィールド

グリーンフィールドは、本来の姿に戻りました。ミーのところに父親、母親が戻って来てめでたしめでたし。

 

爽やかな風が吹き抜けるグリーンフィールド。これこそ本来の姿です。だけど最後に一言。風車小屋とひまわり畑の光景が映し出されるんだけど、くっせぇんだ、ひまわり畑って。

 

 

感想&考察

あ、これ、苦手なタイプの映画だって中盤に差し掛かってようやく理解しました。内容そのものには具体性があまり感じられないんですけど、その分、舞台の背景となる設定(人はそれを世界観と言います)には凝っていました。物語、というよりかは、芸術としてのテーマの伝え方なんだな、と改めて感じました。

分からないんだ、結局。いくら考えても、的外れになることは分かってんだね。でも、この映画には、それでも感想や考察を書きたくなるようなパワーに溢れてるよ。恥をかくのを承知で、感想と考察を書き進めて行こうかな。

 

サトシ

本作の主人公、なんだけど殆ど部外者。確かに、アンノーンにとらわれたミーを開放するキーパーソンではあるんですけど、かといってサトシの物語かと言われると、ちょっと違うような気がします。

例えば、サトシがミーに「このままじゃ、ミーはずっと、ひとりぼっちなんだ!」というシーン。あらすじを書いているときに触れておいたかもしれませんが、この言葉自体は非常に核心に迫っています。ミーはそもそも、ひとりぼっちが寂しくてこのような結晶の世界を創り上げたわけですが、このまままやかしの世界は、彼女が最も欲していた人の温もりというものから最も遠い世界でもあります。このままアンノーンに囚われ続けてしまうと、彼女は幸福を得ることはできません。それはサトシたちの恐れることであり、また、彼女を幸福を望むエンテイの危惧すべきところです。

しかしこの言葉、サトシが言うことに必然性は無いんですよね。もっと具体的に言い換えると、この言葉、サトシがミーの立場を理解した上でエンテイを説得した、と考えるには物語的な裏付けが弱いという意味です。ママさんのような大人ならとにかく、サトシのような10歳の子供、しかも、いつも友人に囲まれて陽の当たる世界を歩んできたような人に、ミーちゃんの寂しさが理解できるかと考えるとちょっと無理があるような気がします。一応、サトシとミーは昔、交流があったという設定はありますけど、ミーの立場を理解する理由としては弱いかな、と感じてしまうことも否めません。

事件解決の突破口になったサトシは確かに主人公らしいし格好良いんですけど、やはり、主人公としての役割は果たし切れていないかな、と思ってしまいます。

 

リザードン

しがないサトシたちを助けに入った昔の相棒。知らない人のために解説しておくとな、金・銀時代のポケモンのアニメは、ジム戦を勝ち抜いてポケモンリーグ出場の鍵を手にしたところまではいいものの、戦力的には弱するので、自らが強くなるために新しい地方で新しい仲間と強くなろうと決心した際に置いて来た昔の仲間の力に頼る、というちょっとスゴい作品なんだよ。手持ちがチコリータ(後にベイリーフ)、ワニノコヒノアラシ(ダイパでマグマラシに進化)、フシギダネヨルノズク、(現時点では入手していないがゴマゾウドンファン)じゃあ、仕方といったら確かに仕方ないんだけどさ。

かっこかわいかったよ、リザードン

 

カスミ

バトルシーンが印象的だったかな。カスミが最初に出したトサキントというポケモン、アニメではモンスターボールから出したのはいいものの陸上で「トサキント」とちょっとキモイ声で跳ね続けるという、ちょっと不遇なキャラクターなんだよ。見せ場があってよかったよかった。

 

タケシ

何気に影のMVP。見た限りだと、この方が一番ミーちゃんのことを分かってるような気がしました。「ゴマゾウの転がる、凄かったな」って言ってましたけど、結晶の中に閉じこもっていたミーを外の世界に目を向けさせるきっかけとなった一言です。達観しすぎていて、頼りになるお兄さん、というより肝の据わったおじさんです。

 

ママ

この人、なんだかんだで最後まで名前呼ばれることがありませんでした。自然な流れで名前を呼ばせないってすごいな。裏金でも回してるのかな?

 

アンノーン

作中、一切その正体については謎に包まれたまま終わってしまいました。めちゃめちゃキモイです。そして、恐いです。勿論、正体不明の不思議パワーそれ自体も恐いのですが、どこから来たのか分からない、何を考えているのか分からない、生き物なのかすらも分からないと、分からないことだらけのポケモンで、その道の先にある神秘的な部分に恐怖を感じたのかもしれません。

作中に本当に一切の説明が無いのでこれは想像で補うしかないのですが…アンノーンの正体はきっと、『精神世界の使者』のようなものだと思います。事実、劇中で「アンノーンのはミーのイメージを体現している」と説明がありましたし、謎めいた宇宙空間のようなところから神出鬼没にやって来たことから考えると、この結論が妥当かな、と思います。

アンノーンが文字の形をしているのも、人の心とか、精神世界とか関係がある証拠なのかな、と思います。人は言葉によって物事を理解するとも言われていますし、言葉による先入観で目の前の景色を無意識に作り上げているとも言われています。アンノーンの力というものは、言葉の持つ後者の力をより具体的にしたものなのかもしれませんね。

文字はそれ一つでは意味を持ちません(←厳密に考えるとこれも間違えなんでしょうけど)。これも、何らかの力を発揮する際にはいつも集団で動いているアンノーンというポケモンの性質とマッチしているように思われます。また、文字は人の思考を表すものでもありますけど、文字それ自体が思考をもつものではありません。これもまた、「何を考えているのか分からない」という性質に適っているように思われました。

言葉は絶えず意味が変化する、ある意味生き物の様だと表現されることもありますが、いくら不気味エイリアンでも、アンノーンは、ポケモンという生物なのでしょう。

 

エンテイ

さて、この方に関しては一番攻めた考察を書くつもりです。

この映画のドタバタ劇の発端はアンノーンであり、グリーンフィールドを覆った不気味結晶も、アンノーンがミーのイメージを具現化させたものであると説明を受けます。結晶の他にも、結晶塔の中の花畑や海といった不思議空間もミーのイメージですし、また、大人になったミーも、そのミーが使ったポケモンたちもミーのイメージから作られたものです。ミーの意思が宿っていた『大人のミー』という存在はさておいて、他のものは、終始ミーが望むような形に姿を変えました。事実、花畑に突然現れたポケモンバトルフィールドや呼吸可能な深海、いくらでも強くなり得るポケモンたちが存在していましたね。

さて、ここまで書いて疑問を感じることが一つ。『エンテイ』というポケモンの存在です。まず、その生い立ちが特殊です。エンテイは「お父さんに帰って来てもらいたい」というミーの願いから生まれたものの、それなら、イメージの父親それ自体が生み出されてもよかったはず。また、彼は、「お父さん」が欲しいという願いから生まれたにも関わらず、「ミーを守る者」としてしか自らを認識しておらず、「ミーの父親」だとは思ってもいませんでした。作中、ママを助けに来るサトシたちの妨害をしましたが、それはミーの意思とは関係なく、自らの意思での行動でありました。生い立ちも、行動も、エンテイは他の「イメージ」とは異端の存在です。

なぜこのような現象が起きたのでしょうか。実は彼、「ミーだけのイメージ」ではないのかもしれないのです。さて、これを考察するには、アンノーンというポケモンをより観察する必要がありそうです。

ヒントは、アンノーンがミーのイメージを体現する直前にあります。ミーはアンノーンの描かれた石版を手にし、その石板が輝きを見せた次の瞬間、アンノーンが召喚されました。さて、実はミーと同じようにしてアンノーンを召喚した人物がもう一人いるのです。そう、それはミーの父親、シェリー博士です。

ミーの父親として振る舞ったエンテイは、「寂しがり屋の娘を守ってやりたい」という父親の願いと、「父親に帰って来てもらいたい」というシェリーの願い、また、絵本に出て来た「エンテイ」というポケモンに対する父と娘のイメージ合わさって作られた存在である可能性があります。そう考えれば、ミーのイメージであるのにミーの予想外の動きをみせたことにも納得ができます。

しかし、そう考えると、一見自らの意思を持っていたかのように見えた行動も、じつは父親のイメージを体現した現象にしか過ぎなかったことになってしまいます。彼に心があったのかはわかりませんが、ミーを守るという最大の目的を果たせた以上、案外幸せだったのかもしれませんね。

 

全体を通して

とにかくコワい、怖い、恐い。

謎の結晶にとって目前の世界が浸食されてゆくことに対する生命的な危機感。これに飲み込まれたら無事ではいられないだろうという視覚的に迫って来る脅威に、防衛本能が悲鳴を上げるような恐怖を感じます。

しかし、それ以上に怖いのはアンノーンという謎のポケモン。その正体については一切がみちの領域で、これには生物としての危機感よりも、神秘的なものに対する畏敬のような、そんな恐怖を感じました。

しかし、さらに言えば、アンノーンが登場する以前からすでにコワいです。埃っぽい古城の風合いがあまりにもリアルに再現されており、無常観に迫るような精神的に微妙な領域の感性に突き刺さる恐怖を感じたね。

って何言ってんだろう。

っていうか古城ってだけで苦手だわ。コナンの『青の古城探索事件』のトラウマがまだ色濃く残っているせいだと思う。

この映画の恐怖、神秘性ってセル画だからこそ表現できるっていうのもあるのかな、と思ったり。とにもかくにも、アニメーション的(特に美術的)な表現って言うのはホントに完成度が高いので、それだけでも見て損は無い作品ですよ。

ポケットモンスター 光輪(リング)の超魔人フーパ

劇場版ポケットモンスター第18作。リングの超魔人フーパの感想です。私は劇場で一回しか見ていないので、細部見落としているところや台詞の記憶違いは多々あると思います。

 

あらすじ

「100年前、砂漠の街「デセルシティ」は、強大な力を持つポケモンによって壊滅的な被害を受けていた。そこへ現れた旅人が、不思議な力を持つツボでそのポケモンを封印したことで、デセルシティの人々は平穏な時間を取り戻していた。

そして時は流れ現在、旅を続けるサトシ達一行は、不思議なリングを使って色々なものを取り出したりする力を持つ謎のポケモン「フーパ」と、フーパの世話をしている少女・メアリと出会う。無邪気でいたずらとドーナツが好きなフーパは、サトシとピカチュウを「サートン」「ピーカン」と呼び、サトシ達とすぐに仲良しになる。デセルシティに着いたサトシ達は、メアリの兄・バルザと出会うが、フーパはどこか怪しい雰囲気のバルザと、彼の持っていた「いましめのツボ」にひどく怯える。バルザはフーパの姿を確認すると突然、ツボの蓋を開け、ツボの中から噴き出した「影」に包まれたフーパは苦しみ出し、邪悪な気配をまとった巨大なポケモンへと姿を変えた。それはフーパの本来の姿である「ときはなたれしすがた」であり、かつてデセルシティに大きな被害をもたらしたポケモンでもあった。「ときはなたれしすがた」となったフーパに襲われたサトシ達だったが、メアリと「いましめのツボ」の力によって、フーパは再び「いましめられしすがた」へと戻った。その後、ツボに封印されていた「影」にバルザが操られていたことも判明した。

サトシ達はメアリと、「影」から解放されたバルザの話から、100年前にデセルシティで起きた出来事、フーパの力の一部を「いましめのツボ」に封印した旅人がバルザ達の曾祖父・グリスであること、そしてツボに封印されていたフーパ本来の力が長い年月を経て「怒り」となり、フーパを取り込むことで再び暴れだそうとしていることを知る。フーパの暴走を防ぐ方法を探り始めるサトシ達だったが、フーパと「いましめのツボ」の秘密を知らないロケット団がツボを盗もうとしたことで、ツボに封印されていた「影」が解き放たれる。バルザとメアリは、「影」に抵抗するフーパと共に暴走を抑えようとするが、「いましめのツボ」は壊れてしまい、行き場を失った「影」は、邪悪な気配をまとった「超フーパ」として蘇ってしまう。

サトシ達はフーパを捕らえようとする超フーパの猛攻をかわし、壊れたツボを復元させるため、そしてデセルシティを守るためにフーパが「おでまし」した伝説のポケモン達と共に一致団結する。そしてそれに対抗するべく超フーパも伝説のポケモン達を「おでまし」して操り、迫り来る。伝説VS伝説による史上最大のポケモンバトルが開始された。」

 

引用;ウィキペディア

 

 暴れん坊のフーパが「力」と「本体」に分離されて、そのツボに封印された「力」の方が本体の「影」になって本物に乗り替わろうとするんですけど、サトシの説得を受けた本体のフーパは「影」と和解する、っていうのが大まかな前半戦の内容になっています。しかし物語はこれではまだ終わらない。影と和解して本来の力を取り戻したフーパなんですけど、暴れすぎたせいで街が崩壊してしまいます。フーパは街の皆を安全な土地に移すためにリングの力で空間移動させますが、自らはツボの戒めの力が残っておりリングを通り抜けることができません。しかし「みんなと一緒に居たい」という思いがついに戒めを破るのでした。

 次の土地を目指してフーパとお別れを告げるサトシたち一行でしたが、フーパはでセルシティで壊してしまったビルの建設の手伝いをするのでした。

 

感想

 まずはこの映画、話の内容自体は、まあ良かったかな、と思いました。可もなく不可もなく、という感じです。前作のディアンシーの時に感じた物語としての具体性の欠如は相変わらず不安要素として残っています。特にサトシというキャラクターの必然性のなさについては、前作と同様にう~ん、と頭を悩ますところです。

 でも今回突っ込みたいのはそこじゃなくてね。あらすじのところでも書いた通り、サトシの説得を受けた本体のフーパは「影」と和解する、っていう展開があるんですけど、これって、本来は誰かに説得されるんじゃなくて、フーパ自身が気付かなければならないところだと思うんですよ。そもそもフーパは、金銀財宝目当てでフーパに近づいてくる人たちに調子に乗せられて暴走したわけで、戒めのツボを作りフーパの力を封印した張本人のグリスが、その後フーパと生活する中でフーパに教えたかったことは、「利害目的だけじゃない、本当の信頼関係を築き上げなさい」っていうことだった(はず)です。そういうグリスの意思に自ら気付くことが、フーパって言うキャラクターの成長であり、この物語の醍醐味だと思ったのですが…サトシとの出会いがきっかけになって、それでフーパ自身が気付くっていう展開ならまだしも、説得されて納得するのはちょっと違う気がする。っていうか、その説得する人物がバルザやメアリといった、長年の友人とかならまた意味合いは違ってくるんですけど、サトシは親しいとはいえ、昨日今日で友人になった他人。そんな人に一任されていいセリフじゃないような気がします。

 いろいろ書きましたが、目立った欠点はそれくらい(←と言っていいのか分かりませんが)かな、と思いました。

 しかしこの映画、映像的な演出やファンサービスが強くて、細かい粗なんて気にしないで済むくらい臨場感に溢れる持ち味になっております。今までの伝説のポケモンたちが登場するだけでなく、アニメで登場したキャラクターもゲスト出演したり、サトシが伝説のポケモンラティオスラティアスレックウザ)に支持を出したりと、やりたい放題です。

 サトシが レックウザの竜巻+ラティアスラティアスサイコキネシス でバリアを張るように指示を出したときはビビったよ。なんで伝説のポケモンたちの覚えている技を把握しているのかとか、そんな細かい矛盾は気にしてる暇も無くサトシ凄すぎ!って思っただけですね。伝説を呼ぶフーパよりも伝説に指示してるサトシの方が恐ろしいよ。

 ムサシのソーナンスも珍しく活躍していました。相変わらずのムサシの「ソーナンス、よろしく!」という投げやりな指示に対し、カウンターかミラーコートか瞬時に見分けてギラティナシャドーボールを跳ね返すという離れ業をやってのけてました。さすがソーナンスさん

 こんな感じで見せ場はたくさん用意されていましたし、飽きさせないワクワクする展開に魅せられる映画ではありました。話の盛り上げ方の緩急のバランスにも優れていました。

 あの臨場感は劇場版で見てこそ、っていう面もあるので、DVD後で借りようかなと迷っていた私は行って観てよかった、としみじみと思いました。