アニメとかの感想書留

Twitter「@kanso_na_kansou」https://twitter.com/kanso_na_kansou カテゴリー一覧http://animekanso.hatenablog.com/entry/2016/04/07/124605

たまには更新3~「エルvsセレナ! 開け未来への扉!!」

 割と突拍子もない内容を書く「たまには更新」シリーズ(?)のことだから、またいつかのように非公開にするかも

 流石に一月全く更新をしないと、ブログに対して怠惰になりすぎてしまう予感がしたので、更新。今日のアニポケの内容がすっごく自分好みだったから急に感想書きたくなったってのもあるんだけどね。

 というわけで・・・

 

「エルvsセレナ! 開け未来への扉!!」感想

なんの前触れも無くアニポケの感想。あらすじと分けて書いた方が読みやすいかなって思ったんですけど、今日は気楽に行こうかなって。

今日はポケモンパフォーマンスマスタークラスの予選決勝戦からスタート。手を怪我しているセレナはそのせいで身体のバランスを崩して失敗しかけるんだけど、ニンフィアに助けてもらう形で無事フィニッシュ。ニンフィアっていうポケモンは以前ダンスを失敗した経験があるからこそ、セレナをフォローすることができたんでしょうね。そんなこんなで、セレナは見事予選でナンバーワンに輝くことができました。

そして場面は変わって控室に。怪我をしているセレナに矢代さんっていうスゴく日本人っぽい名前のおばさんが「ファイナルステージは休みなさい」って忠告するんだけど、セレナは「諦めたくない」と言って出場。結局、カロスクイーンのエルに敗れてしまうんだけど、最終決戦の中、セレナはエルの演技を見て「皆に笑顔を貰うパフォーマンスじゃなくて笑顔を与えるパフォーマンスをしたい」っていう結論を導き出す。

エルはセレナの憧れでっていうのは以前からそうで、セレナはエルの演技を観るのは一度目じゃないのにこのタイミングでそういう結論を導き出すことができたのは、ただエルに対する憧れだけじゃなくて、旅の中で夢を実現させるための強い意志を培ったお陰でしょうね。前回のステージが終わったとき、矢代さんがセレナに「あなたにはクイーンとして絶対的に足りないものがある」って謎かけをしたこともこの答えを出すためのきっかけになったのは確かですけど、結論はセレナが旅の経験を元に導き出しだしたものです。

前回矢代さんがセレナに「あなたにはクイーンとして絶対的に足りないものがある」謎かけをしたときに、私は「いやいや、思わせぶりなこと言ってないで教えてやれよ」って思ったりもしたんですけど、これはセレナ自身が自分の力で気付かないといけないことだったんですね。

最終的には、矢代さんがセレナにパフォーマンスを教えるために自分について来ないかと提案するんですけど、セレナが今は仲間たちとの旅を最後までやりとおしたいっていう形で断りました。で、矢代さんは、旅が終わったら連絡を頂戴と言って、めでたしめでたし。

XY編が終わるまではセレナはレギュラーとして登場させないといけないっていう大人の事情があるから、今後のセレナの扱いをどうするんだ、って心配に思うところがあったんですけど、これもまた上手くまとめてくれました。色んな人たちからたくさんの事をおしえてもらったサトシとの旅を中途半端にさせたくない、っていうのは旅の中で夢を磨いたセレナらしい気持ちと対立しませんね。また、サトシとの旅が終わった後の目標も定めてくれたので「成り行きで解散」という事態は避けることができそうです。セレナならきっと大丈夫、って思えるような別れになってくれるといいな~。

というわけで、ポケモンXYセレナ編完。

 正直言って、セレナってあんまり好きなキャラじゃなかったんですよね。家を出たいっていう単純な動機でサトシとの旅を決めたところは、私も共感できるような等身大の気持ちで好ましく思ってたんですけど、セレナがポケモンパフォーマンスに参加を決めるところまでが、サトシの旅のお荷物って印象の方が強かったんですよ。かわいいけど、ろくに活躍しないし個性も際立っているわけじゃないし。死にキャラだなって思ってたんですけど、今回の話を観て、それも含めて夢までの回り道だったのかなって思うことができるようになりました。好感度、はなまる急上昇。まとめ方って大事。

 

※矢代さんじゃなくてヤシオさんらしい・・・

ドラえもん 新・のび太の日本誕生 感想

※紫小文字は追記になります2016/03/18

 

 恒例のドラえもん映画鑑賞会。毎年のことながら、ドラえもんの映画見ると一年終わったんだなぁとしみじみと思いますね。今年の映画の元である映画『ドラえもん のび太の日本誕生』は私のお気に入りの映画の一つで、昔、それこそ台詞を大体暗記してしまうくらい観ていたんですよね。思い入れの強い映画というだけあって、ノスタルジックな気分に浸ったりと、ちと複雑な心境で鑑賞しました。

 『ドラえもん のび太の新・鉄人兵団』に大胆な変更点が見られたため、この映画も覚悟してはいたんですけど、思ったほど旧版と大きな違いはありませんでした。物語の流れもそうなんですけど、それこそ台詞も殆ど旧版のものがほとんどそのままそっくり採用されている場面も多いです(※旧版の方を見返しつつ、ちょっと時間を置いて自分の感想を見返してみた結果、そっくりそのまま採用されている、ということは無いなって思いました。むしろ、同じシーンを切り取ってみたらはっきりと違いが分かるように意図的に作られていたように思います。例えば、この後に続く文章の中でも触れることになりますけど、劇中、らくらくしゃべるという秘密道具の説明が旧版では「岩なんてプリンみたいに軽く掘れるんだ」だったのに対し、新版では「岩なんて豆腐みたいに軽く掘れるんだ」という風に変更されていたんですよね。同じ言い回しならないようにしようという徹底した意思がないとこうなりにくいでしょう。秘密道具に関していえば、デザインの微妙過ぎる変更点にも作り手の意思が介在しているんでしょうね。 一度目に感想を書いた時点で気付くべきでした。当然ながら一度しか観ていないのでまだまだ私の気付かない細かい変更点があるとは思うんですけど、気付いた範疇で大まかな部分を以下に箇条書きをすると

 

・ドラミちゃんが映画に登場する

・タイムパトロールのマンモスが登場しない。そのため、のび太はタイムパトロールと連絡を取るためのスイッチを受け取らない。

・ギガゾンビの指令室のデザイン大幅変更。亜空間破壊装置を登場させるためと思われる。

・旧作にはなかった中ボス戦の追加。巨大土偶と戦う。

・亜空間破壊装置が起動する描写が見られる。ククルが壊す。

ドラえもんたちが直接ギガゾンビを倒す

・最後にはやはりタイムパトロールが登場するが、旧版とは違い、ドラミちゃんが召喚した。

のび太の家出騒動をめぐり、のび太のび太ママの心の交流が掘り下げられる。

 

ざっとこんな感じです。もうちょっと細かい点は、例えば、トレオドールのマントの色の変更とか時空震カウンターの風船の色がピンクからオレンジに変更、ショックスティックのボタンの色の変更などの道具のデザインに変更ありとか、「ここからここが僕の敷地!」の言い出しっぺがのび太からスネ夫に変更されているとか、時空震カウンターを使うシーンでののび太の「わかった?いつ?まだ?」のセリフがカットされているとか、ドラちゃんの有名な台詞「バーベキューにしてくれる~!!」がカットされていたとか、まさに枚挙に暇がありません。旧版と全く同じにするのも芸が無いからちょっと工夫したんだろうな~と思うものもあれば、現代の放送倫理にそぐわないためカットされたと思われる展開や台詞(ジャイアンの「ちぇっ、少女趣味!」「俺たちはもっと男性的な、冒険の世界の方がいいよな」っていう台詞のカット、ククルが野比家の冷蔵庫の食べ物を頂戴する展開のカットとかetc)もありました。他にも「そこ、変更する意味あるのか・・・?」と思うようなシーン(タイムパトロールの乗組員がおっさんから超美人なお姉さんになっている、とか、らくらくシャベルの説明が「岩なんてプリンみたいに軽く掘れるんだ」から「岩なんて豆腐みたいに軽く掘れるんだ」に変更されているなど)もあったりと、旧作のファンでも比較しているだけで色々と発見があって面白いですよ。

 今回「感想を書こう!」と思ったもそういった旧作との違いで心動かされたことを覚えているうちに書留ようと思ったから。できればそういった細かい違いを一つ一つ拾っていきたいんですけど、さっき「枚挙に暇がない」って書いた通り、それやってるといくら時間があっても足りないくらい細かいところでの変更が多いんですよね。ということで、本当にビックリしたところまで今回はピックアップして書いていきたいな、と思います。

 

 

新版はのび太たちのサクセスストーリー

最初の箇条書きに書いた通り、全体的な物語の流れにおいて一番大きな変更点って、のび太たちとドラえもんがギガゾンビを直接倒すっていうところだと思うんですよね。実はこの変更点においては、自分は旧作の方が好きだったりします。

という思いを語るには、まず私自身の旧作に対する感想を語らネバダ

最近いろいろと機会があって「ドラえもんの独特なSF観っていいよね」っていう話をする機会があったんですけど、『のび太と日本誕生』もその“独特なSF観”ってやつが色濃く見られる作品なんですよ。私が思うに、旧版の日本誕生におけるドラえもんらしいSF観は、「精霊と科学技術」っていうテーマに表れているかな、と思います。

というのもこの映画、ドラえもん山田博士ことギガゾンビが「科学技術を駆使して精霊王を名乗る」「原始人たちがギガゾンビやドラゾンビを敬う」展開からは、科学技術そのものの持つ力の強大さや、未知のものに遭遇したときの人間が感じる根源的な恐怖の表現がスゴいんですよ。劇中ではスネ夫たちが「昔の人たちは何にも知らなかったからね」と言って精霊を恐れるククル達原始人を馬鹿にするようなことも言うんですけど、だからといってドラえもんたち科学を知っている人類の方が優れているかといったらそうでもありません。現に、一世紀先を生きるギガゾンビに手も足も出ずにコテンパンにやられてしまいます。つまり、ドラえもんたちギガゾンビからすれば「最先端の科学を知らない」原始人みたいなものなんですね。かといってギガゾンビが優れた人材か、と問われたら、それも怪しいところ。亜空間破壊装置なんてとんでもないものを発明できることからも博士としてのギガゾンビは優秀であろうことが伺えますけど、タイムパトロールを前にしては殆ど無力に等しく簡単にやられてしまう。劇中の悪の巨人かと思われたギガゾンビも、ただの一般人に過ぎなかったわけです。

ククル達七万年前の原始人も、のび太たち20世紀の住人も、ドラえもんたち22世紀のロボットも、ギガゾンビたち23世紀の科学者も全員ただの一般人。時代は違えこそ、人間が精霊であったり科学であったりといった極大的な“自然”に対して信仰心を抱いて、それらと折り合いをつけて生活しているっていう構図は一緒なんですね。

ドラえもんは厳密に追及すると矛盾が生じている設定もあります。今作『のび太の日本誕生』においては、「歴史を改変することは悪だ」っていう時間遡行技術に対する倫理観が語られるのに、ククル達ヒカリ族が日本に移住する手伝いをするドラえもんたちの行いは疑問視されないことにもやはり設定の矛盾は見られます。そういういところでは、舞台背景や設定としてのSFは失敗は観られるんですね。といっても、矛盾が生じるのはSFっていうジャンルの宿命のようなものなので、細かい矛盾を指摘してドラえもんが「完成度の低い作品だ」っていうのは違う気がするんですよ。むしろ、ドラえもんSFの醍醐味は、「こうきたか!!」と思わせるようなイメージの広げ方や、頭ごなしに魔術的なものを否定しない度量の広さや、科学技術と人間の関係に対する鋭い観察にあります。あると思っています。

去年の映画の感想にも書いたと思うんですけど、最近のドラえもん映画はエンターテインメント性に比重が傾ているせいもあってか、そういった昔のドラえもんSFの見どころっていうのが潰されている気がしてちょっと悲しいんですよ。

 日本誕生のリメイクにおいては、のび太たちが秘密道具を使ってギガゾンビを倒すっていう展開がラストに来ているせいで、先述したような旧作の世界観のバランスが完全に崩れ、「秘密道具を使ったドラえもんのび太たちのワクワクドキドキアドベンチャー」という味付けに仕上がってます。

でも、どっちが優れているのか、っていうのは問題じゃないんです。旧作のちょっと湿っぽい感じの作風も、新作のちょっと(アホっぽい)元気な作風も、それぞれの持ち味なんですね。ただ、私は旧作に思い入れがあるので、作風の変化から時代の流れを感じてちょっと悲しくなっただけ。

ただ、前回のスペースヒーローズや今回の新・日本誕生を観て思ったことは、エンターテインメント性重視の方向で目指しているにしては、現状の作風は完成形に至ってないなと思います。全体的な構成は観ている人を飽きさせないワクワク感があるな、と思うものの、キャラクターの描写とか細かい部分に関しては雑すぎるんですよ。

新・日本誕生においては、雪山でのび太が「君は独りじゃ何もできない」と語り掛ける自分の幻を観るシーンや、ギガゾンビを倒したときの「一世紀の違いなんて、みんながいれば(ry」といったセリフが、その雑さを表すいい例なんじゃないかな、と思いますね。いつかどこかで観たことのあるようなテンプレートをなぞったシーンや台詞をコピー&ペイストするんですよ。だからなんというか…キャラクターの顔が見えないんですよ。例えばのび太に関しては「0点」「綾取り得意」「射撃が得意」とか、映画全編通して見ても人の表面的な部分にしか触れられてないんですよね。

端からそういうものを求めてない、観客をドキドキさせられればそれでOKっていうならそんな“余計な”描写は要らないですけど、新・のび太の誕生で観られた「家出する息子とその母親の心のすれ違い」みたいな人間ドラマ(←旧作には無い展開。新版オリジナル。)を描きたいなら、そのうちドラえもん映画製作陣にとっては課題になってくる問題だと思います。(※こういう書き方するとまるで「家出する息子とその母親の心のすれ違い」の描写に失敗したみたいな印象も受けなくもないですけど、決してそんなことはありませんでした。「家出」っていうテーマがそもそも映画に絡む余地が少ないため唐突感は否めなかったですけど、それでもいいシーンだなぁと思いました。ただ、他のシーンが、ちょっとなぁとは思いますが…)

 

 

突如として現れた人間ドラマ

 余計な追加シーンが多いな、と思う新作の中で、結構好きだったな新要素。家出をして家を恋しく思うのび太の心理描写とか、家出したのび太を心配するママの心の動きとか、そこら辺の描写が丁寧でいいな~と思いました。親子喧嘩の原因は「0点を取ったのび太にママが『外出禁止昼寝禁止令』を出した」っていうことなんですけど、最終的にはママは言い過ぎたと反省して、のび太も自分から机に向かうっていう双方の歩み寄りが見られました。この映画でこういう人間ドラマを挟む意味は特にないと思うんですけど、描写が丁寧だったので、不覚にもうるっときた。

 ちなみに旧版では、家出っていうのはのび太たちが7万年前の世界に行くきっかけに過ぎなかったので大分あっさりしていましたね。

 まあでも納得できなかったのはスネ夫しずちゃんの家の事情。旧版ではスネ夫、しずかの家出のきっかけがそれぞれ「全科目に家庭教師をつけられる」「ピアノのレッスンに疲れた」だったんですけど、「英語の他にフランス語、中国語、スペイン語まで習わされる」「何となくお母さんの期待がプレッシャーで」という理由にグレードアップされています。その上のび太の家庭とは違って親子間のやりとりに全く描写が無い挙句、最終的にはスネ夫は4ヶ国語の勉強を始めてしずかはピアノのレッスンに励むという子供の完全妥協の形で決着が着きます。なんというか…ちょっと子供がかわいそうになってしまうんですよね。とくにしずかちゃんなんて、「親の期待がプレッシャー」と思わせるくらい心理的に負担をかけ続けたら、放っておいたらいつか爆発しそう。

 な~んかなぁと思います。

 

 

ペガサスだけ…

 日本誕生、に登場するのび太の三匹のペット、ペガサス、ドラゴン、グリフォン。ドラゴンとグリフォンはしっかりデフォルメされているのに、ペガサスだけ異常に写実的に描いてあって超笑います。This is the 馬!って感じ。生まれたての頃は普通にデフォルメされていたのに。出てくるたびに、笑います。

 

 

スタイリッシュドラゾンビ

 ドラゾンビがちょっとスタイリッシュになってます。ドラゾンビはダサいところがいいのに!

 

 

スタイリッシュギガゾンビ

 ギガゾンビのマスクを外した姿がね、格好良くなっているの。40代で現役ビジュアルバンドやってますおじさん的なカンジ。こっちの方がThis is the 悪者!って感じの見た目です。

 新版はエンターテインメント性を重視したアドベンチャーに仕上げられているので、きっとギガゾンビもラスボスっぽく仕立て上げたかったのかなぁって思いました。

 ちなみに、旧作はちょっと出っ歯なぼうぼう白髪おじさんです。新作では髪も赤くなってます。

 

 

作画の進化

 言わずもかな、作画が超進化してます。

 特に凄いな、と思ったのが空の表現なんですね。夜空に星がキラキラと煌めく様子も有無を言わせず美しいんですけど、特に昼間の透き通るような青空と自然すぎる雲の流れなんて、綺麗すぎて恐くなりました。砂漠では夜空の満月が明るすぎて眠れない、という話もあります。考えてみれば、7万年前、まだそれこそ文明が殆ど皆無の時代って、人と空がもっと近かったのかな、なん思いました。

 あまりの青空の美しさに圧倒されて、劇場では不覚にもホロリと来たんですね。技術の進歩を実感して「ああ、時代は変わったんだな」ってしみじみとノスタルジックな気持ちに浸ってしまって。昔、風邪を引いて家で休んでいるとき、時計の針の音しか聞こえない心寂しい室内のベッドに横になって、ボーっとした頭で窓の外で悠然と流れる雲を眺めていたときのことがふと頭に浮かびました。

 自分語りになっちゃいましたけど、要するに、作画が凄いっていう話です。

 

 

最後に

念押ししておきますけど、新版が酷い、っていう訳じゃありません。私の好みの完成形ではなかったっていうだけです。劇場で新旧比較してあれこれ思い出して、怒ったり笑ったり悲しくなったり感動したりしているだけで楽しかったですよ。

旧版に思い入れがあるからちょっとなぁ、と思っている人は人で楽しみ方はありますよ☆

第26話 沈黙の影!? あわき蛍火のゆらめき

脚本;榎戸洋司

演出;五十嵐卓哉

作画監督;爲我井克美

美術田尻健一 

 

あらすじ

書きにくいので割愛。いつか時間があるときに書き足すかも

 

感想

ほたるの過去と家の事情がメインの回。身体が弱くて外に出ることもままならない上、変な生物に憑りつかれているから友達になった人を傷つけてしまう、その上お父さんの様子はどこかおかしくて、家族同然といえるくらい土萌一家に踏み込んだ付き合いをしているカオリナイトはほたるに冷たい。家庭にも外にも居場所が無い上に自分が何者かさえ分からない。ほたるの感じていた孤独は強烈だったに違いありません。ほたるの生い立ちを回想形式で観た後に病院でちびうさたちがお見舞いしているシーンになるのですが、本気でほたるのことを心配しているちびうさって暖かいなって思いました。きっと、ほたるにとってちびうさはただの遊び友達ではなくて、一緒に居て安心するような友達なんでしょうね。

ほたるのことを気遣って「うちに遊びにおいで」「ママのケーキ美味しいんだから」と言えるうさぎも信頼できるお姉さんです。しかしこのシーン観て思ったのが、このアニメ、うさぎって言うキャラクターを「普段はドジで間抜けなところがあるけれど、本質的には優しくて思いやりがある信頼できるお姉さんで、ドジなところさえ周りを安心させる長所に変えてしまう魅力を持っている」キャラクターにしたかったのかなって思うんですよ。この話ではそういう風な描かれ方はされていますし、ほたる中心に物語を観ると実際うさぎってそういう人物なんです。しかしはるか目線で観ると濃縮圧縮クズ度100%の純粋なおバカになるっていうね。「バカって罪なんだな」っていうのがこのアニメを最初に観たときの私の感じたテーマでしたね。

うさぎのキャラクターの描かれ方の問題点って一つなんですよ。最後にまとめて書こうと思っていることなんですけど、書き忘れると悪いのでここで簡単に書いておきます。

うさぎって、「ほたるを守りたい」っていう思いで行動している点においては一貫しているんですよね。最終決戦で聖杯なしでスーパーセーラームーンになったきっかけだって、その思いが背景にあってのことですから。しかし、彼女は全人類を守りたいって思っているわけでもないんです。要するに、「ほたるさえ無事でいてくれれば他の人類がどうなっても構わないぜ」ってうさぎは思っているんですよ。最終決戦で敵に聖杯が渡って世界がご臨終モードに突入している中で「これがお前の望んだ結末か?答えろおおおぉぉぉ!」と叫ぶウラヌスの問いには横目で流したくらいにして何も答えず、すっかり諦めモードに自らも突入しているにも関わらず、ほたるが自己犠牲により世界を救おうとした途端に戦意を取り戻すワンシーンがそれを物語っています…

いや、私だって、製作者スタッフがうさぎをそんなサイコに仕立て上げようとしたと本気で思っているわけではないですよ。しかし、先述したような「普段はドジで間抜けなところがあるけれど、本質的には優しくて思いやりがある信頼できるお姉さんで、ドジなところさえ周りを安心させる長所に変えてしまう魅力を持っている」キャラクターを描くには足りない画材が多すぎたっていうだけの話です。うさぎをそんな聖人君子のキャラクターに描きたかったなら、あの最終決戦のワンシーンの改正して、ただ何となく日常回で敵を迎え撃つだけではなくてうさぎが皆を守るために積極的な行動に出る描写をすることが最低限でも必要でした。まあ、最初の方のウラヌスとネプチューンの描かれ方を観ていて分かるようにその場のノリで作っているところもあるのでここまで緻密な計算の居る作業を製作スタッフさんたちに求めるのも無理な話なんですけどね。

 

天王はるか

説明してよ。

ちびうさをほたるに近づけないように忠告するはるかでしたが、その理由は訊かれても答えません。「怪しい力を感じた」とか「敵の可能性がある」とか一言言えばいいのに。作中でも彼女たち外部太陽系戦士がセーラームーンたちとは違って孤高の存在だっていうことは散々言われていることなんですけど、厳密に考えると、それは今回うさぎたちに説明しなかった理由にはなっていません。「うさぎたち温室育ちの幸せ戦士たちを過酷な戦いに巻き込みたくない」っていう思いやりからなのか、「うさぎたちなんか信用できねーよドアホ!」っていうプライドの高さから来た行動なのかそれとも他に理由があるのか。彼女たちがどういう考えをもって動いているのか私には分からない。おそらく製作者も分かってない。

東京タワーでカオリナイト撃退する話とか、突拍子も無く登場したデス・バスターズのモンサンミッシェルでの聖杯出現事件の回の感想で、ウラヌスとネプチューンの行動原理がいかに滅裂なのかっていうことについては書いたのでここではもう突っ込みませんよ。

まあ、今回ウラヌスが説明しなかったのは、今後の話でほたるとうさぎの普通の友情物語を描きたかったっていうシナリオ進行上の理由でしょうね。でも、今後の話でほたるが丁寧に描写されていることを踏まえて、仕方ないのかな、と見過ごしてしまえるかも。

第25話 アイドル大好き! 悩めるミメット

脚本;榎戸洋司

作画;安藤正浩

演出;小坂春女

美術;鹿野良行

 

あらすじ

 デスバスターズ幹部、ミメットの次の目標はアイドルの嵐こうき。ミーハーのミメットは例のごとく嵐のピュアな心を狙いつつ彼の追っかけをします。

 一方、同じく嵐のファンの追っかけをしている美奈子は、彼に会うために彼の主演映画のヒロインを決める公開オーディションに参加します。しかし、彼と対面するには一次審査をクリアしなければなりません。

 ミメットと美奈子はオーディションの受付でばったりと遭遇します。意気投合した彼女たちは、お互いを励まし合いながらオーディションの合格を目指しました。

 二人は無事一次審査を合格します。ミメットは嵐のピュアな心の結晶を取り出したらアイドルとしての自分の将来の可能性を失ってしまうことを考え、一度はデス・バスターズを抜けることを考えました。しかし、二次審査でギリギリ不合格になってしまったため、やはりデス・バスターズの一員として生きて行く覚悟を決めたようです。

 美奈子はセーラームーンたちの力も借りながら、ミメットの悪行を阻止します。ミメットと同じように二次審査には落ちてしまった美奈子でしたが、嵐の心の結晶は守ることができました。

 

 

感想

ど、ど、ど、どうしてこのタイミングで!?と思わざるを得ないミメット(それと美奈子)メイン回。ミメットの初登場回でもなければ、「主人公サイドに寝返る悪役ミメット」という今後の物語に影響を与えそうな展開も見られない回。ピュアな心とは何かにもあまり触れられない回。存在意義が謎の回。ほたるっていう新しいキャラクターが出て来て、かつ敵も新たな動きを始めている現状でこの無意味な一話を挟んだ意味が分かりません。

「全体のバランスの問題で美奈子のメイン回も作らないといけないど肝心な美奈子が空気キャラだからミメットという新要素とからめて新しい可能性を模索した結果よく分からないことになった」と勝手に予想してはいるんですけど、憶測の域を出ませんね。

しかし、この25話、ちょっといつものように「色々と空回りちゃったギャグ回」と軽く見過ごすことが出来ないんですよね。その理由はミメットっていうキャラクターと、そして31話の彼女の死に方に関係します。31話にまとめて書こうかなって思ってたんですけど、31話は31話でミメットの他にも書きたいことがありそうなのでここで書いておきます。

 

ミメット

 今回は「アイドルの追っかけ」っていう人間らしい一面が見られたミメットさん。そもそも「夢見がちでトランス状態」というキャラクターで登場してアイドルの追っかけも今に始まったことではないんですけど、今回はアイドルになれそうかもっていう局面になって「デスバスターズを辞めようかな」って悩んだりと人間らしい一面が強調されている話となっています。それだけに、31話で電脳空間に生きたまま閉じ込められる(生死不明)というグロテスクな末路は、一視聴者としてはかなり後味の悪いものになっております。人間味を感じられるキャラクターが死ぬだけでも胸が痛むのに、電脳空間という脱出不可能な孤独の空間に意識残したまま閉じ込められるんだもんな。個人的「印象に残る死に方ランキング」とか作ったら五本の指には確実に入ると思う。

まあ、この話、“悪者とは何か”っていう物語の永遠のテーマもちょっとはらんでいます。セーラームーンのようにヒロインが正義の使者として悪と戦うように物語においては、悪と言う存在は主人公に倒されるということで輝きます。しかしこの話のように、主人公サイドとは根本的な概念が対極にあるような“悪者”なのに人間味というかなり主人公サイドに近い性質を見せつけられてしまうと、ミメットってそもそも倒されなければならないキャラクターなのか?っていう疑問に突き当たります。

ここでで、セーラームーンSにおいてそもそも「悪者って何だ」「デス・バスターズ」って問題について考えてみようと思います。私が思うにセラムンSの悪者は主に二種類あるんですね。一つ目は、具体的な脅威としての悪者。要するに自然災害みたいなもので、「地球を滅ぼす力」としての存在意義を持つ悪者。そしてもう一つは、人間が醜いと思う人間の考え方(など)。要するに、「悪役とはこういう思考をするものだ」っていう考え方をもとに作られたキャラクター性の事。

前者の方の悪者としてのデス・バスターズは一貫して描かれているので気にすることも無いんですけど、問題なのは後者の方。デス・バスターズの幹部のウィッチーズ5なんですけど、最後にセーラームーンたちの手によって倒された双子の魔女(?)以外、仲間割れで死んでいます。その理由は「他人を蹴落として昇進したい」とか「何となく気に入らないから」とかいかにも悪役が考えそうなことではあるんですけど、前者の「地球に滅びをもたらす宇宙人」としての悪者が徹底して描かれているだけに、後者の設定に無理が生じて来るんですよ。「滅び(沈黙)を美しいものとして考えている」っていう人間の価値観が通用しない存在として描かれているものに、仲間割れとかの人間的な悪を描いてしまうと矛盾が生じてしまいます。

 

異色のキャラクターミメット

 人間体でも格好いいとは言えず中身の正体もキモい土萌教授なのですが、ウィッチーズ5から観れば憧れの存在のようです。これも、宇宙からの侵略者、価値観の通じないエイリアンとしてのデス・バスターズの一面として見ると納得できます。

 しかしミメットは人間のアイドルに恋をするという、他のウィッチーズ5と比べると異色なキャラクターです。特に意味はない設定だと思います。

 しかし、さっきも言ったように、あんまり悪者のミメットに人間アピールされても、視聴者としては後味悪いし混乱するだけ。

 

それでもシリーズではましな方

 それでもこれでも、悪の描かれ方は無印からスターズのセーラームーンシリーズの中では比較的というか多分一番ましな方です。侵略者としてのデス・バスターズが描かれているだけね。と言っても、Rは所々しか見てないからよく分からない。

特に酷かったのはSuperSかなぁ。

Supersについて感想を書いてみようかな、と思ったけど際限がなくなりそうだからやめた。また今度まとまった時間でもあれば。

 

90年代アイドル

まだ主流な映像メディアが映画とTVしかなかった時代のアイドルって、2016年現在のアイドルよりも重く闇が深い職業だったのは確かですね。今回登場した嵐君とかも発言が重くて、ラブライブとかよりもベルばら的な描かれ方をされてるなぁと思いました。セーラームーンシリーズで描かれるアイドルと、今のアイドル(たとえば・・・代表的なので言えばA〇〇とか?←あんまりその方面は詳しくない)の、温度差、的なものを感じてしまいました。

セラクリ3期迷い中

 ブログってどこもそうなんだけど、最新の内容がトップに表示されるのが嫌だなって思う部分があったりするんですよね。今回の話の内容なんて、愚痴っぽいからあまり目立つ部分に置きたくないっていう気持ちもあるんですよ。というわけで、まあちょっと色々工夫して、過去の日付で投稿しています。

一週間後にセーラームーンcrystalの第三期が放送される模様。セーラームーンSの感想を書いたきっかけとしてセーラームーンcrystalの存在があったことにはあったんですけど、かといってセーラームーンcrystalを毎週感想を書き続けるまで興味のある内容かと言ったら微妙なんですね。

昔、このブログのどこかで書いた内容なんですけど、セーラームーンcrystalって漫画再現しているだけのアニメなんですよ。セラクリの1期、2期と観て「全体的に冗長でつまらない」って感じた人は、読み手のペースで進めることのできる漫画っていう表現だから辛うじて許されていた禁じ手をそもまま映像化するにあたって採用しちゃっている、っていう構図が感覚的に受け入れられなかった人なんじゃないかな?

そんなこんなで、セーラームーンcrystalって一つのアニメ作品として完成する以前の問題があるので、私としても感想をどう書いたらいいのかっていうのが分からないんですよね。「つまらない」っていう根本的な部分は、漫画の再現を目指すセラクリのコンセプトから由来するもので治りようがあるはずない。百歩譲って、そういう構造的な問題を無視して内容だけを読み解くという形で感想を書くと、それは漫画版セーラームーンに対する感想を書いたっていうことになって、もはや訳がわからない状態になってしまう。ある意味スゴいアニメです。感想ブログスレイヤー、セラクリ。

 まあ、こんな風にセラクリに関しては殆ど諦めかけているところもあるんですけど、第三期からはスタッフの大入れ替えがあるみたいなんですよね。(売り上げが芳しくなかったから東映側としても刷新したい気持ちがあったとかいう話もありますけど、まあ、これは風の噂程度の信頼性です。)私は漫画バージョンのデス・バスターズ編を読んでいないっていうことだけあってちょっと興味が無くもないんですけど、ブログにわざわざ書くまでのことかって戸惑いは大きいんですよね。

 まあ、あまり食わず嫌いもいけないのでとりあえず2、3話程度は感想を書いてみようかなとも思いますけど。あんまり批判サクレツするような文章になるようであったり、自分自身がアニメを継続して見続けることに意味を感じられないようであれば、多分途中で消します。

 

2016年3月26日

 

animekanso.hatenablog.com

第24話 妖気漂う家! 美少女ほたるの秘密

脚本;杉原めぐみ

作画監督;中村太一

演出;宇田鋼之介

美術;田尻健一

 

感想

感想を書くのを敬遠していた話の一つ。理由はあらすじを書きにくいから。ということで本日はあらすじ割愛

物事が恣意的に運ばれるというか、キャラクターが目的を持って動いていません。まあ、セーラームーンはまだ敵の正体すら分かっていない状態ですから、今までの話の中で目的を持って動いていたかというと疑問ですけど、それでも、ピュアな心を狙う敵から人々を守ろうっていう意思はありました。今回の話は偶々遭遇したダイモーンと戦闘するだけです。

しかし…これは新しい登場人物(今回の話においてはほたる)が現れることの宿命なのかなって思ったりもします。キャラクターが各々の意思を持って動き始めるためには、新キャラの客観的な描写に重点を置くことも必要ですからね。要するに、今回の話は前置きのようなものってことです。

今回の話、ほたるの描写含め最終章に突入するための前置きはいくつか見られます。簡単に具体的にまとめると以下のようになるかなと思います。

 

・デスバスターズが太陽系の外から攻めて来た敵だと明かされる。ついでにプルート含め外部太陽系三戦士がそういう類の敵と戦うために生まれた戦士だと明かされる。

・やっぱりウラヌスはセーラームーンたちとの共闘を拒む

・ほたるの父親が敵のボス(?)らしい。

カオリナイトの生存確認(うさぎは気付いていない)

・うさぎがほたると面識を持つ

・ほたるが何かに憑りつかれているみたい(?)

・ほたるは良い子っぽい(うさぎ感想)

 

ほたるはこれからの話の中でも、何回かに分けて比較的じっくりと描写されていきます。今回はほたるの内面とか人柄に触れられることが少なく、どちらかというと彼女を取り囲む環境の方に重点が置かれています。うさぎが最後に「家庭の事情は複雑そう」って言ってましたけど、ある意味視聴者の感想でもあるのかな、と思ったりもしました。

それにしても外部太陽系三戦士、セーラームーンを「足手まとい」と言ってましたけど…彼女たちだけじゃ力が及ばないくらい既に敵が強くなっているのによくも大口を叩けたものだなぁと。現に今回のダイモーンとの戦闘でも必殺技三連発でも敵を仕留めきれませんでしたし。「お前は逃げろ!!」と言っていることから、うさぎたちを過酷な戦いに巻き込みたくないっていう優しさから来た言葉とも考えられます。あんまり自分の気持ちを表現することが得意のようには見えませんもんね。でも、2話とか見返すと、そんな優しさを持っているとは思えない冷酷な人間なんですけどね。話によって天気のように人格が変わりやすい彼女たちのことですから、ここで深く考えるだけ無駄なことかもしれませんが…

 

ちょっと砕けた感想

・OP

前回の感想でスーパーセーラームーンの姿が追加されたって書きましたが、それよりも前から追加されてたみたいです。

 

・作画

言わずもかな中村作画。最近無印をほんのちょっとだけ見返しましたがその時よりもレベルアップしてるなって思いました。好きだ。

 

・プルートのバンク

変身バンクと必殺技バンクが追加されました。ウラヌス・ネプチューンと併せて久々に見たけど、やっぱりセーラームーンのバンクはレベル高い凄いなって思いました。

 

・タキシード仮面は変身するのか・・・?

プルートの変身バンクの印象を上書きするように現れたまもちゃん。木枯らしに乗った木の葉が一瞬画面を遮ると、衛はタキシード仮面になっていました。

昔からの謎なんですけど…タキシード仮面って変身してなるものなのか着替えてなるものなのか。実写版のタキシード仮面様は着替えているっぽいです。

第23話 真の救世主は誰? 光と影のカオス

脚本;柳川茂

作画;長谷川眞也

演出;佐々木憲世

美術;大河内稔

 

あらすじ

聖杯が出現したもののセーラームーンはそれを使いこなせるメシアではありません。うさぎたちにはメシアを探すという新たな課題が課せられます。

どうやってメシアを探すのか、いつものようにレイの火川神社で会議するうさぎたちでしたが、見当もまるでつきません。そこにちびうさがやって来て、公園に連れて行って欲しいとうさぎにお願いします。うさぎは大事な話し合いしているからと一度断るのですが、美奈子が「江田ようさく」という俳優のロケがあると言うと、気持ちは変わり、うさぎもレイもまこともすっかり公園気分。亜美も説得しつつ、一同はちびうさと一緒にロケを見に行くことになります。

うさぎたちがロケに夢中になっている間に、ちびうさは帽子を風に飛ばされ、追いかけているうちに黒服の少女と出逢います。「ほたる」という名前のその少女に、ちびうさは彼女に「一緒に遊ばない?」と話しかけます。

一方、新たなウィッチーズ5のミメットは江田ようさくを襲います。タリスマンを探す必要は無くなったデス・バスターズでしたが、新たにエネルギー源として人々のピュアな心を求めているようです。

うさぎたちは変身して敵に立ち向かいますがパワーアップしたダイモーンにはムーンスパイラルハートアタックが効きません。ちびうさを人質に取られたりと苦戦しますが、ウラヌス。・ネプチューン、そしてセーラープルートの助けもあって形勢逆転。スーパーセーラームーンに二段変身するとーダイモーンを撃退しました。

ダイモーンのせいでちびうさは怪我をしますが、ほたるは不思議な力で傷を癒します。「不気味な力」と自虐的になるほたるを「そんなことない」「素敵」とちびうさは励まします。ちびうさはこうしてほたると友達になるのでした。

 

 

 

感想

OPの映像が少し変わり、最後にスーパーセーラームーンの姿が見えるように。そしてウィッチーズ5も新たにミメットが出動するように。ミメットさん、多分敵の中では一番グロテスクな死に方します。初代~スターズの全敵キャラの中でトップレベルのグロさなんじゃないかなあと。いやあ、あれは流石にキツいでしょう…画面に彼女が出るだけで、ちょっと胸がキリリと痛みます。

今回の話で一番重要なのはなんと言ってもやはり、ちびうさとほたる出逢いでしょうね。ダイモーンからほたるをかばったり、ほたるの力を「素敵」とすぐに言えるあたりに、ちびうさの優しさと強さがうかがえますね。しかしそれだけに無鉄砲なところもあって危なっかしくもあるんですけど、そこも含めて好きなキャラクターだったりします。

ほたるは今回が初登場。初登場の今回、ちょっと走っただけで息を切らしたり、「学校の皆はこの力、気持ち悪いって言うの」という発言から、彼女が病弱なことと孤独であることが、それとなく描写されています。今までのセーラームーンには無いタイプのキャラクターです。肩口にレースが縫い付けられた真黒な洋服、というのも特殊かも。

さて、新たなダイモーンはセーラームーンの必殺技をあっさりと防御していましたが、視聴者としては「最初からこのタイプのダイモーン使えよ!!」って思わなくもなかったりします。しかしまあ、そこはセーラームーンに二段変身させるためのご都合展開と言うことで納得、かな。それにしてもダイモーンの鵜飼戦法、色々と強烈です。これから狙われるのが二枚目俳優ばっかりっていうのもね。

今回の感想はこれくらいです。いよいよラストスパートに続く新章に突入して、今後の展開が楽しみになってきますね。