アニメとかの感想書留

Twitter「@kanso_na_kansou」https://twitter.com/kanso_na_kansou カテゴリー一覧http://animekanso.hatenablog.com/entry/2016/04/07/124605

XYZの伝説~ごめんねディアンシー

 11月03日のポケモンXYZは「XYZの伝説」ということで、その副題の通りカロス地方に伝わる伝説の紹介になりました。基本的には、昔、ゼルネアスイベルタル、そしてジガルデに出逢ったことのある青年の話を通して、三体の伝説のポケモンがどういった存在なのかを解き明かす内容になっていました。ただ、“基本的には”と書いた通り、現代のカロスの人々の認識など青年の視点から語れないものや、言葉による直接的な解説が必要な場合は、カロスの伝説を解き明かすプラターヌ博士の考えという形でナレーションによる説明が入りました。

 具体的に今回の内容を説明すると、昔々、恋仲だった青年ジャンと少女アイラがいました。しかし、破壊ポケモンイベルタルの永久を受けてアイラの方は石化。ジャンはアイラをよみがえらせることのできる、イベルタルの対となるポケモンゼルネアスを探して旅に出ます。月日は流れ、ジャンはおじさんになってしまうのですが、旅先でついにゼルネアスを見つけることができました。しかし、そのときゼルネアスは樹に姿を変えており、そんな無抵抗なゼルネアスを王様っぽい人たちがなぜか燃やし始めます(←あからさまに百害あって一利なしのことなのに、なぜ王様たちがこんな行動に及んだのかは本当に謎です。イベルタルを攻撃するならとにかく)。しかし、そこでジャンは止めようと入るのですが捕まってしまい、殺されそうに。そんなところに現われたのは、見たこともない巨大ポケモンジガルデ)でした。ジガルデゼルネアスを痛めつけた人間たちを一掃し、ゼルネアスは樹から本来の形に戻りました。ジャンはゼルネアスにアイラを助けてほしいとお願いするのですが、ゼルネアスは無視して立ち去ってしまいました(…なぜ?)。

 ゼルネアスに関しては諦めてしまったジャン。そんな彼は、かつてアイラたちと一緒に暮らし、そしてイベルタルに枯らされてしまった大地を再び豊かな土地へと戻すため、残りの生涯を費やします。しかし、一次は順調だった復興作業も、ある年の干ばつでダメになってしまいそうになります。そこに、再び青年の目の前にゼルネアスが現われました。ゼルネアスは不思議な力でみるみるうちに枯れた大地を緑豊かな土地へと変化させるのですが、アイラが蘇ることはありませんでした(…なぜ?)

歳を取って白髪頭のお爺さんになってしまったジャン。彼はアイラ像の隣で、穏やかな最期を迎えるのでした、という話。

 ここで今回の話をみた今回の私の感想は…実は嫌いじゃない。しかしお話として完成度高いかということや、あるいは、本編で登場した伝説のポケモンジガルデについて語りきれなかった設定の補足をしようという試みが成功したかということをまじまじと考えてみると…XYZらしく色々とすっ飛ばした展開になっていたり、設定面でもちょっと甘さが目立ってしまう内容にはなっていたと思います。

 しかし最終的に好きに落ち着いたのは…命の循環と秩序という無常観を匂わせる背景と、ジャンの生涯のもの悲しさがマッチしていたから、かな。アイラはそもそも、イベルタルからジャンを守って石化してしまうんですけど、ジャンの後悔みたいなものに触れられていたらもっと好きになったかも。

 

 そんな感じで、XYZ編はこれにて終了。次週からはサン&ムーンが開始します。ポケモン図鑑に入り込んで人間の言葉を喋るロトムが登場するらしいんですけど、これを聞いてサン&ムーン編は地雷だなと早くも思っております。主人公のすぐ近くにポケモンと人間の通訳がいるというのはちょっと…「そもそもポケモンって何だ?」って話になって来るじゃん?まあそれはまた今度。

 最終回記念に色々とため込んだフラストレーションをはてブで吐き出そうと思ったけど、意外と好きになれちゃった内容だったのでガスが抜けたというか、まあそんな感じです。そして、あと、ちょっとディアンシーの映画を悪く言いすぎたなと反省したんですよね。

 というのも今回の話で、XYZ(←ゼルネアスイベルタルジガルデのフォルムを表した記号で、アルファベットではないらしい。はっきりとそう言葉で説明があったけど、ポケモンの世界ではっきりとアルファベットというものの存在が示されたのは意外だった)の伝説の設定を知って、ちょっとアレを元にお話を作るのは無理かなって思ったんですよね。

 というのも、映画のお話を作る上での縛りがちょっとキツすぎると思ったんですよね。今回は番外編で、サトシたちの旅と関係のない昔話ということでちょっと暗めのお話の展開もできてましたけど、本編の方ではキャラクターの生き様のような微妙なラインの話を嫌う傾向がありますし。ディアンシーの映画は、オトボケキャラのディアンシーに対して無条件に優しくウフフオホホ気持ち悪いガールズトークを繰り返す無味乾燥な会話が友情の証みたいに描かれていますけど、これは作品全体が目指していた大きな方向性の表れだったのかもしれないですね。臭い物には極力蓋をして、雰囲気で楽しそうに盛り上げるっていう方向性。私なりにこの作品を最後まで追って見続けた結果思ったことなので、根拠は特に無いんですけど、確信はしています。

 そんな作風の中に、生命の循環なんていう哲学的な命題を背景に据えた設定をブッ込めと言われたら…私にはちょっと無理かなって思います。思いました。ディアンシーの映画のイベルタルが、ピクミンのドドロみたいって例えましたけど、むしろドドロポジションに落ち着いていただけましだったのかも、と思います。ゼルネアスならとにかく、イベルタルがお話の中心に食い込むようなことがあれば、グチャグチャになることは間違いありませんから。

 ディアンシーの映画に関しては、「やる気ねーなら映画作るな!!」…とまでは言いませんけど、そういう想いを抱えて散々文句を言ってきましたけど、今回の最終回番外編である程度思い切った内容をしていたことを受けて、映画版の製作に関しては個人の力量では変えがたい大きな流れというか、現場の常識があったんだろうなと思いました。

 まあそれでもやっぱりクソはクソだと思いますけど、その理由に関してあんまり決めつけすぎてもいけないな、と思いました。

『サトシとラストバトル!セレナの選択』 感想

 今日はアニポケの感想。と言っても今日放送分の内容についてじゃなくて、主に先週の内容について。結論としては先週の内容はスゴくよかったってことに落ち着くんですけど、その前にポケモンXY編について思い入れを語ろうかな。いいきっかけなのでね。

 

 私はアニポケのXY編は途中から観始めたんですね。というのは、長年アニポケを追い続けている方はご察しがつくと思うのですが、BWの時代を経てアニポケに対しての期待が限りなくゼロに近付いたからです。主人公なのに完全空気キャラのサトシ、「子供ね~」と取り敢えず言わせられるだけのアイリスに、「テイスト」「テイスト」ってマスコットキャラの語尾のようにしつこく繰り返す以外に特徴らしい特徴が描かれないデント、シリアス路線とギャグ路線の狭間を渡り歩く情緒不安定のロケット弾など…BWがヒドいとはよく言われていること(?)だとは思うんですけど、具体的にその事例を語り始めたら枚挙に暇がありません。

 私はアニメ、というかドラマ全般を鑑賞するときは、キャラクターに対してどれほど真摯に向き合っているのかっていうところに重点を置いてみるんですね。人それぞれに物語の楽しみ方があるので、「キャラクターの心情なんてどうでもいいんだ、設定の壮大さが物語の醍醐味なんだ」って考える人が居ても私は全然OKです。お話として連続性の無いその場しのぎの一発ネタで人気を稼ごう、ってノリのアニメがあってもいいと思います。でもね、物事には最低ラインってものがあるんだよ!!

 私はできれば、キャラクターの心理描写とかにはこだわってほしいと思っているんですけど…まあそこに重点を置かないにしても、最低限キャラクターの特色や役割が示されていないと、本当に観ていて辛いです。出来の悪いアニメを観ていて感じる「辛い」という感情にも憤りとか興ざめとか色々な種類がありますけど、BW編については「退屈で視聴するのが苦痛」という意味で辛かったです。一度観始めたアニメなので最後まで完走はしよう、最後まで観ないと得られない結論があるかもしれない、そう思い修行のように追っていた時期もありましたが、心が折れてしまいました。

 そんな経緯を経てXY編の放送が開始しました。ネットでチラホラ「ストーリーが凝っている」と噂を聞いていたのですが、比較論法でまともに見えるだけでどうせ見るだけ時間を浪費するんだろうな、と観る前から半ば諦めていたんですね。そんなときにちょっとした機械があってディアンシーの映画を鑑賞したんですけど、これもまた酷い内容。ただひたすらに物語として退屈で、映画館で、おそらくポケモンを受け取るために映画券を買ったのであろう小学生が「あー、やっと終わった!!」ってため息交じりに行っていたのが本編よりも印象的でした。

 ディアンシーの映画は、私の心の片隅に残っていたポケモン熱を完全に冷ます結果となりました。

 しかし、放送時間が個人的なライフサイクルに噛合っていたこともあって、結局はアニメ本編の方はこの映画を機に視聴してみることにしたんですね。勿論、何も期待はしていなかったけど。しかし、DPも映画は酷いけどアニメ本編は好きだったし、決めつけることはよくないなって思ったんですよね。帰宅してきたばかりの時間帯でニュース番組を見るのもかったるいし、適度なリラックス材料として観てみるのも悪くないかなって思いました。悪い言い方をすると「頭を使わない(ように割り切って鑑賞しようと思う)アニメ」なんですけど。

 結論から言うと、あくまでもBWと比べてのことだけど、良くなったと思いました。BWと違って、一話完結のお話の起承転結の定型文は完成されていたので、ストレスが溜まることはありませんでした。映画もズルズルと惰性で他二編も鑑賞してしまいましたけど、ディアンシーの映画は特別に酷かっただけで、それぞれ気合いを入れているところがあって楽しめたかな。フーパの映画は伝説のポケモン祭りをしようって意気込みを感じられたし、マギアナも頑張って感動物語を作ろうって気持ちは伝わって来た。この二つの映画は、全く別方面から攻めたのも好印象だったかな。毎年馬鹿の一つ覚えみたいに同じことやられてもなぁとは常々思っていたので。あ、毎年同じような雰囲気のお話を作るのが悪いって言っているわけじゃないですよ。ポケモン映画らしい持ち味っていうのが確立されているならば、そこは譲らずに毎年引き継ぐのも一手だと思います。けど、アニポケってどの時代も方向性が見えてない手探りの状態で作っているみたいなところがあるので、どうせなら思い切って挑戦してほしいなと。

 一方、アニメ本編の方は…ダメダメっすね。まあ、何が一番ダメだったかというと…やはり個人的にはサトシがリーグで敗退したことでしょうか。え?サトシをリーグ優勝させたら続編を作れないから仕方ないって…?

 

 ホントに?

 

 まあ毎シーズン疑問には感じていたんですけど、そもそもポケモンリーグって優勝してどんな良いことがあるんでしょうかね?サトシはポケモンマスターになるって夢がありますけど、リーグ優勝者=ポケモンマスターなのかって部分はかなりぼかされていますし。ポケモンコンテストやポケモンパフォーマンスのように、その大会に優勝することがある業界に入るための登竜門になっている、というならリーグ優勝することにも意味が見いだせるんですけど、歴代のリーグ優勝者はトロフィーを受け取った以降の活躍が描かれていないため、そこら辺の事情もかなりあやふやになっています。

 ここで、そんな疑問に終止符を打ってくれたのがアラン選手でした。アランはサトシに打ち勝って優勝し、彼の目指していた「最強になる」夢を果たしました。そんな彼に待っていた未来は…旅に出る前に手伝っていたポケモン研究所に戻ること。つまり、ポケモンリーグに優勝しても、彼の日常には何の変化も訪れなかったことになります。

 だったらサトシを優勝させてやれよ。

 っていうかサトシゲッコウガってなんだったんだよ。何のために登場させたんだよ。「二人が力を合わせることでどんな困難も乗り越えられる」みたいなこと言っておきながら負けさせてんじゃねーよ。っていうかアランがサトシのライバルみたいにいつの間にかなってたけど、アランってそもそも旅先でばったり出会う強いトレーナー以上でも以下でもなかったじゃねーか。短パンこぞうみたいな扱いをしておきながらライバルとか、わけわかんねーよ。っていうかサトシがアランに負け続けたのって、最終的にサトシに勝たせるための布石じゃなかったのかよ。ホント、今までの旅はなんだったんだよ…。

 サトシゲッコウガはこのアニメの闇です。

 散々「カロスの平和を守る」みたいな伏線が張られてれていたのに、そのカロスの危機も、サトシゲッコウガじゃないと救えない危機っていうわけじゃなかったし。ついでに言うと、「ロケット団がカロスを危機から守る重要な役割を果たす」っていうことも語られていたけど、TV中継でクライシスを中継することのどこがカロスの平和を守ることだって?まあ一応フレア団との戦闘はしていたけどさ…。またまたついでに言うと、シトロンとロボットの友情物語とか要らねーんだよ。降板させるために人格の宿ったロボットコロしてんじゃねーよ。っていうかポケモンなんだから、ポケモンとの友情物語を描けよ!!

 まあそんなこんなで、酷いです。ホント、酷いです。一番お話として売りにしていた部分が一番ヒドいです。

 しかし…キャラクターバランスは良いなって思ってしまったんですよね、カロス組って。ヒロインのセレナがバトルに関して全くダメダメ(←これもまたついでに言うとさ、カロスの危機編でフレア団の攻撃をテイルナーがかえんほうしゃで迎撃するんだけど、それをみていたマロンっていう女の子に「セレナ、スゴい!」って台詞言わすんですよ。夢を追いかける、バトルに関しては素人の女の子って描写を徹底しておきながら、ここでこういうアピールをする意味が分からない)。これも、バトルバカのサトシの良い引き立て役になっていたかな、とは思いました。シトロンもなんでもありなトロニックマシーンなるものをよく開発するんですけど、狂言回しというか、お話の中にいい変化球を与えてくれいたとは思います。

 まあ、「サトシの引き立て役」って書いた通り、見る人によってはセレナって役立たずなんですよね。前半で夢を見つけることが彼女のテーマになっていたので、戦力にもならない上に目的も無い、80%くらい空気キャラでした。ディアンシーの映画では、なんか突然サイホーン牧場が登場させる(←セレナはサイホーンレーサーとしての素質が抜群という設定があります。)ことくらいでしか役割を与えられないレベルの空気キャラです。しかし、要所要所の場面では丁寧な描写のあるキャラクターなんですよね。「ママの言う通りの進路を歩むのが嫌だ」っていう自分の気持ちに気付いた上で本当にやりたいことを見つける展開や、ちゃんと自分の気持ちをママに伝えて説得する展開も描かれていました。ただ他人に影響されて、きらびやかな世界に憧れて始めたポケモンパフォーマンスの世界だったけど、自分で「たくさんの人を楽しませたい」っていう新しい目標を見つける展開も、彼女の成長をよく表していたかなと思いました。

 ここで、ようやく本日の本題に入るのですが。

 先週の内容は、今までのセレナの集大成だったかなと思います。めちゃくちゃになった街の人たちに、「笑顔にさせたい」と言ってボランティアのポケモンパフォーマンスを企画するセレナは彼女の新しい目標を見せてくれましたし、(途中描写は無いけど)彼女が成長した証だと思います。娘のパフォーマンスをする姿を見てアクトレスとしての娘の成長を自慢に思うママだったけど、プラターヌ博士からセレナが企画したお祭りだということを教えて貰って、思っていた以上に成長していた娘の姿にビックリするところも、なんかいいなと思いました。しかしまだ頼りないところもあって、今後の進路という重大なことついてはママに頼って相談してしまうのも、良い信頼関係に築かれた親子関係だなと素直に思いました。「悩んでいるときはポケモンバトル」って言ってセレナを励ますサトシも、セレナの憧れの人として美味しい立ち位置だったと思います。セレナが、ポケモンパフォーマンスのお偉いさんのヤシオさんからの「一緒に来ない?」という誘いを断るシーンも、彼女の決意を表している良いシーンだなと思いました。「ホウエンに行ってポケモンコンテストを体験してみない」と提案し「今度私にパフォーマンスを見せて。私、あなたのファンなのよ」って励ますヤシオさんはいい先輩としてキャラが立っていたと思います。

 なんか、派手な演出も意表を突くような展開も全然ないんですけど、これまでのお話の流れを汲み取って一つ一つ丁寧に決着をつけてくれたので、私は本当に満足です。久しぶりに、アニメを観て心が温まるなと思いました。

 この記事内でも散々批判をしたポケモンXY編。まだまだ言い足りない批判もたくさんありますよ。しかし、一人でも好きになれるキャラクターができて、また、強烈に好きな話が一つ二つあったので、視聴し続けて良かったなと思いました。

単発感想 魔法つかいプリキュア33話

 『すれ違う想い!父と娘のビミョ~?な一日』

 

 背筋がゾゾゾっとするキモい話だったので、衝動的に感想を書いてしまいました。

 

 まあ、ある程度気持ち悪くなることは、先週の予告の時点で察してはいたんですけどね。サブタイトルには微妙な親子関係とか書いてありますけど、プリキュアがキャラクターの心情の機微なんて描けるわけがありませんから。リコがプリキュアやっていることをリコパパが知っていると知らされた時点で、「パパが戦闘中にリコを庇って、敵が『馬鹿みたい』って言って、反撃するプリキュア陣」って展開をやりたいことがよく分かりました。ここ最近、「なんか悩みを持った人が出て来て、それを馬鹿にする敵をやっつける」って展開を繰り返していますからね。安い喜劇です。プリキュアシリーズに関してはよくある手法なので今更驚くことでもありません。

 まあ、別に、流れ作業的に決まった型に当てはめてお話を作るってことが必ずしも悪いって言っているわけじゃないんです。ちゃんとシナリオとして中身が伴っていれば、ね。今回の話に関しては、敵を撃退した後になんか父娘が和解していますけど、お互いがお互いの思いを分かり合うような展開は一切ありませんでした。前回の話に関しては、サッカー部部長の少年が部員から離れられてしまったという問題提起から物語が始まるんですけど、その少年と部員との交流が一切描かれないまま、いつの間にか仲良しになっていました。プリキュアは難しいテーマが浮上した際、戦闘中いきなり悟り始めるという狂気の展開がお家芸なんですけど、同じ手法を日常パートでも積極的に用い始めたってことなんでしょうね。視聴者としては脱力してしまいます。

 私は今日の文章で「展開」という言葉を何回か用いたと思いますけど、正確にはプリキュアには展開というものは見られません。あくまでも前後の相関性があってこそ、展開は存在するのですから。その場その場の思い込みでネタをぶっこんできて、後のことを一切考えていない。整合性が取れていない内容を見せつけられるのは視聴者としても辛いことですけど、何よりも製作者さんご自身が自分の首を絞めるような結果になっているのではないでしょうか?

 例えば、リコパパに関しては勿体つけて散々引っ張った割には全然大したことない人物でした。フツーの異世界の考古学者です。みらいのおばあちゃんが「魔法使いについて何か知っている」ような勿体つけたような描写があったのにも拘らず、実は過去に一度ほうきに乗った校長先生を目撃したことがあるだけで、ただの一般的な老女だった展開と被りますね。

 みらいのおばあちゃんに関しては、魔法使いと直接的な関係が無いことにされてしまったために、存在意義がなくなってしまったばかりではなく、リンクルストーンダイヤがみらいの家にあったことに説明がつかなくなってしまい、また、リコの人間界での留学をフォローする人物がいなくなってしまうという結果を招きました。まさに、現在過去未来すべてに悪影響しか与えない展開を一話の内にやってしまったわけですね。リコパパも、プリキュアとして戦う娘が心配で人間界にやってきたはずなのにリコにプリキュアのことについては一切言及しないという奇妙な展開になってしまいました。さっきも書きましたが、「パパが戦闘中にリコを庇って、敵が『馬鹿みたい』って言って、反撃するプリキュア陣」をやりたかっただけなんでしょうね。それ以外のことに関しては、いくら整合性が取れていない内容になろうと、他意は無いんだろうなと思います。

 しかし、リコのお姉ちゃんにはプリキュアの正体は秘密なのにお父さんには普通にバレてるっていう、これはまた扱いづらい設定に持ち込みましたね。リコパパは今後何回登場するかも分からない超脇キャラとなったわけですけど、今後どういう風に扱われて行くのか見物ですね。

たまには更新5

今日は何となく気持ちが波に乗っているので、お話について思っていることを少しばかり書こうと思います。

 

個人的な話なんですけど、物語に関して「面白い」と「楽しい」と「感動」は結構明確に違うんですよね。

 

まずは「面白い」について。私が物語に関して「面白い」って感じる瞬間って、自分が知らないような登場人物の内面に出逢えた時なんですよね。自分には「これは譲れない」っていう大好きな小説がいくつかあるんですけど、そのいずれも、目から鱗の価値観を持っている人が一人は登場するんですよ。想像できない考えや価値観を持った人というと、どこか日常から逸脱した奇行に走る人や本音を喋らない人を連想しがちなのですが、私が小説を通じて学んだ登場人物は皆それぞれ、ささやかな人生(←正確には人とは限らないけど)を送っているんですよね。本当に好きになったキャラクター(←小説の登場人物をキャラクターというとイメージにそぐわないけど)に関しては、一人として同じタイプの人はいなくて、それぞれ唯一無二の存在なんですけど、物語の中で展開される現実に対して本当に誠実なんですよね。

これは私が勝手に思い込んでいることなのですが、男性作家の描く女主人公の内面って、どこか他人事なんですよ。年齢が高い作家さんの小説を読む機会が比較的多い方なので、そう感じるかもしれないですけど…「女は即物的だ」なんて感じが前面に出ているような物語なんてまず敬遠する対象ですね。いや、男尊女卑が悪いとかそういう話をしているわけじゃないんですよ。物語が他人事になってしまうのが問題なんです。物語って言うよりも、世間話の延長だなって感じてしまうんですね。そのような物語が悪いとは決して思いませんが、心から好きになることは無いだろうな、と諦めている節があります。

ここで注意しておきたいのは、「面白く」はないけど「楽しい」物語ってあるんですよ。敬遠する対象となる「面白く」ない物語を世間話と例えましたが、世間話って、人間の上っ面を撫でたようなしょうもないものでも、日々の生活で溜まった小さなストレスを発散してくれる一面があるでしょう。楽しいだけの物語は面白いだけの物語の下位互換だと思ってはいるんですけど、物は使いようと言いますか、状況によっていくらでも逆転するんですね。

しかしやはりバランスというのは大切で、いくら面白い物語でも「他人に伝えるもの」である以上、ある程度は「楽しく」なるような工夫は欲しいところ。世間話を引き合いに出してしまったので語弊を招いてしまうかもしれませんが、私なりの物語の「楽しい」の定義は、中身が無いということではなく、読者が物語の世界に入り込めるような構成なり演出なりを工夫している、ということです。厳しい言い方をしますけど、他人に伝わらなかったら、伝わらない人にとってはインクの染みでしかありませんから。

単発感想 魔法つかいプリキュア30話

個人的な理由により魔法使いプリキュアの感想を書きます。専用のカテゴリーを設けるほどのシリーズ化は予定していません。

 

感想

開幕校長室。

 みらいたちは、前回の話の終わりにリンクルスマホンから出て来た馬車の形のアンティーク(レインボーキャリッジとみらいたちが命名)について、校長先生に何か知っていないか尋ねるところから物語はスタート。しかし、肝心の校長先生は

「謎は多いが、みらい君たちに引き寄せられて出て来たものに違いない」

 と、「つまり何も分からない」宣言をしただけで終わりました。今に始まったことじゃないんですけど、この校長先生、いつもいつも「分からない」ばっかり言っていますけど。逆に本当に何を知っているんでしょうね。しかも今回の台詞については、「みらい君たちに引き寄せられて出て来たものに違いない」とまで断言していますけど、根拠は何なんでしょうか?まあ、それを校長先生ご本人に問いただしたところで、「それはわしにも分からん」と一蹴されるのがオチでしょうけどね。

 

 次に、「レインボーキャリッジについて何も分からない」ことが判明した会話がひと段落すると、校長室に補習メイトの三人がやってきました。それも瞬間移動で。

 ついこの間の引っ越しエピソードで、物体を複数持ち上げることが超上級者向けの魔法とかいう設定を展開したのにも関わらず、補修組三人に易々と瞬間移動を使わせるとか、製作スタッフが魔法の世界について何も考えていないことがここでも垣間見れる内容となっていました。

 この三人、みらい、りこ、ことは、モフルンの四人に「魔法の自由研究を手伝って欲しい」ってお願いしに来るんですけど、別に校長室までわざわざ四人を探しに来るほど「この四人じゃないとダメ」ってことでもありませんでした。いや、ケイの研究テーマはモフルンなので分かるんですけど、ジュンとエミリーは絵のモデルとヘアモデルを探していただけなので、別にわざわざりことみらいとことはの出る幕でもありません。

 モフルンを探していたケイについて行った先に、自由研究でてんてこまいしていたジュンとエミリーがいて、モフルン以外の主役三人が二人を手伝おうと思った、って展開じゃダメなのかな。

 さきほど私は「製作スタッフが魔法の世界について何も考えていない」って書きましたけど、ジュンとエミリーの使う魔法からそれを再確認させられる展開が続きます。ジュンは絵を具現化したり、エミリーは複数の櫛を魔法で動かしたりと、やりたい放題です。とてもじゃないけど、半年前まで水の形を整える程度の魔法で四苦八苦していた連中とは思えない実力でした。ここまでがAパート

 

 後半戦は、りこの悩み話から始まりました。補習メイトの三人と違って具体的な目標を持っていないことに不安を感じる、というのがりこの悩み。それに対してりこの姉、リズ先生は、りこに小さい頃魔法を教えたことにやりがいを感じたから先生になった、と語ります。(まあ、お前に教えられたリコは魔法の成績だけがポンコツで、ずっとコンプレックスを抱いていたんだけどな!)

 そして、リズ先生は「焦らず、ゆっくりと目標を探せばいい」と締めくくりました。

 私は30話にもなって「焦らず、ゆっくりと目標を探せばいい」っていう結論に持って行くのが意味が分からないし、シリーズ構成的な意味でスタッフさんたちはもっと「焦って、迅速に目標に到達」した方がいいと思うよ。

 

 一方、はーちゃんは自分の使う魔法が、皆と違う類の力であることに勘付いて悩んでいます。自分がみんなと違う存在なのではないかと。

 いや、明らかに違う存在でしょ。まず親がリンクルスマホンっていう時点で明らかに皆と違います。生まれてから半年以内でりこたちと同い年になるところかも、明らかに皆と違います。どうしてこのタイミングでこういう話を持って来たのか、意味が分かりません。

 放置するわけにもいかない問題だから、シナリオ的に消化するためにもこういうシーンを挟んだのかな、と思いきや、やはりそこはプリキュアと言いますか…

 その後、はーちゃんはみらいたちの姿を一見すると「はー!!」と喜んで、その後、この話の中ではーちゃんがその話に触れることは二度とありませんでした。

 モフルン曰く「元気になった」とのことですけど…他のことに注意が逸れて忘れただけに見えるというか、要するに頭が「ぱー!!」になったようにしか見えないです。

 

 その後いつもの敵とのエンカウントバトルが始まるんですけど…

 なんだか、敵の口から、敵の使っている力は「ムホウ」と呼ばれるもので、魔法とは違う類の力であることが明かされます。なんと、ムホウは「地上のあらゆる秩序を超えた、強大な力」だとか何とか。

 魔法とどう違うのかな?まあ、そもそも魔法が何なのかって全く明かされていないので比較のしようが無いんですけど。それよりもランプの魔人さん、あなたの目の前には言いがかりレベルでキレる無法者がいるんですけど、ある意味ムホウよりも恐ろしいんじゃないのかな。

 まあ、今回のバトル、「魔法の勉強が無駄」って笑う敵をやっつけるって内容になっているんですけど、そんな内容にはなっていません。えっと、どういうことかって言うと、「魔法の勉強が素敵」って主張するマジカル&ミラクルの攻撃が敵に一切通じず、その代わりに「勉強しなくても強力な魔法を使えるフェリーチェ」が敵をやっつけてくれました。

 

 笑

 

 こんな感じで、30話が終了です。

 来週はいよいよレインボーキャリッジの力のお披露目会。

 フォームチェンジは合体技が出るタイミングで死に設定になるなって覚悟はしていたんですね。しかし、心配ありません。フェリーチェの台頭によりミラクルとマジカルがいてもいなくても変わらないという状況を積極的に作り出すことによって既に死に設定になっていたのですから。ある意味来週は安心して観れますね♪

 

単発感想 魔法つかいプリキュア第29話

 いやあ、酷い酷いとは思っていたし、予告だけでもお腹いっぱいな内容だったのに、本編での内容は予想のはるか斜め上を行っていました。まさかここまでとは。

 しっかしまあ…投げやりすぎるというか…ついに「投げた」か、というのが今週の魔法つかいプリキュアを観た私の感想の全てになります。

 さて、それでは具体的にどこが問題だったのか、いつものように(?)箇条書きのスタイルで一つずつ指摘していこうと思います。

 

シンデレラ

 魔法つかいの世界の童話はナシマホウ界の童話と若干異なっている、というのが今回の話のコンセプトです。魔法使いの世界では、『シンデレラ』の主役シンデレラではなくシンデレラに魔法をかける魔法使いで、『花咲か爺さん』のお爺さんはじつは魔法つかいだったとのこと。

 どこから突っ込んでいいのかな?

 まずさ、花咲か爺さんに関して、りこは「魔法でもなければ、枯れた花を咲かせることなんてできない」とか言っているんだけど、今までの話で魔法が奇跡を起こしたことって無かったよね。基本的にこの世界の魔法って、物を持ち上げるとか、水を固めるとか、特殊な物理現象的な扱いをされているはずなのに、「不思議なこと=魔法」っていう認識に至るりこの思考回路が理解できないんですけど。というか一話前に、「ドンドン花が枯れちゃった」って大騒ぎして替わりの花を遠くの洞窟まで取りに行く展開があったけど、これって魔法使い連中に「魔法で復活させることはできない」っていう共通認識があっての話じゃなかったの?

 第一さ、

 百歩譲って、「魔法で枯れた花を復活させることができる」「魔法は不思議で、奇跡も起こす」世界観だったと仮定してもさ…そんな『花咲か爺さん』のどこが面白いわけ?ナシマホウカイの『花咲か爺さん』は花咲か爺さんの起こす奇跡が物語の醍醐味になっているわけだけど、「魔法が花を咲かせることができる」ことが当たり前の魔法使いの世界の住人たちが、お爺さんが当たり前にできることを当たり前にする物語を読んで何が面白いの?

 もうね、こういう思い付きで、アイディアを掘り下げるつもりが微塵も無い一発ネタは今に始まったことじゃないんだけど、それにしても、これを面白いと思っているなら作り手はドアホだと思います。

 あ、大事なことを言うことを忘れていました。

 この話、「主役が魔法使いの『シンデレラ』の世界に、みらい、りこ、ことはの三人が迷い込む」って話なのに、迷い込んだ『シンデレラの世界』、全編通して観てもどこが「魔法使い主役」になっているのか理解できなかったんですけど。

 

スマホ

 そもそもみらい、りこ、ことはの三人が迷い込んだシンデレラの世界って夢の中の世界で、スマホンが三人に魔法をかけた結果なんですよね。

 どうしてスマホンがこんな魔法を三人にかけたのか、作中では一切説明はありませんでした。前回の話では、ドンドン花が枯れたことに関して「いつもならこんなことにはならない」って、敵の動きを予感させるような意味ありげな台詞が教頭先生たちから語られていたんですけど、最後の最後までドンドン花が枯れた理由は説明されませんでした。

 ええかげんにせえよ。

 

レインボーキャリッジ

 こんなに盛り上がらない新商品の登場も珍しい。売る気無いだろ。

 絵本の中の『シンデレラ』でモフルンそっくりのシンデレラが、りこたちの力になりたいという一念で誕生させた新商品がレインボーキャリッジなんですけど、絵本の中のモフルンはモノホンのモフルンとは完全な別人で…となると、一体何がこの馬車を創り出したんだ?という疑問が生じてしまいます。

 まあプリキュアなら、「絵本の中の人たちにも心はあるんだよ!!」とかいきなり説教し始めそうですけど。

 っていうか新商品のコンセプトについてもさあ、プリキュアってそもそも「伝説の魔法つかい」って呼ばれていて魔法をかけたり奇跡を起こしたりする立場の存在なのさあ、魔法の馬車を使うって魔法の恩恵を被る立ち回りのキャラに許される特権なんじゃないの???まあ、あの馬車がモフルンやみらいたちが自力で生み出した奇跡だったら話が別なんだけどね。

 基本的に主役のモフルン、みらい、りこ、ことはの四人ってさあ、状況的にスマホンに良いように使われているだけなんだよね。道具に使われるとか、普通に恐ろしいわ。