アニメとかの感想書留

Twitter「@kanso_na_kansou」https://twitter.com/kanso_na_kansou カテゴリー一覧http://animekanso.hatenablog.com/entry/2016/04/07/124605

意味もよく分からずに使っている日本語が多すぎる件について

日記です。

 

最近思うことについてダラダラと書いていこうと思います。

 

今回は、日本語について最近思うこと。

 

結論としては、日本語の熟語の意味を、誕生した経緯まで含めて一つ一つ理解していくと思考能力が上昇するのではないか、という話です。

 

最近、物事を言語化して考えることは思考するということそのものだなぁと思う機会が個人的に多いです。言語化して物事を考えるって、具体性の中にある抽象性を捉えることですからね。

「野菜」という単語を一つ取ってみても、言語と言う者は多分に抽象性をはらんでいると思う今日この頃です。ニンジンとカボチャなんて見た目からして全然違いますからね。しかし、「野菜」を「食用に人間が育てた植物」かつ「木に実らないもの」とか定義してみると、不思議なことにニンジンとカボチャの共通性が見えてきます。「野菜」だろうが何だろうが、ニンジンはニンジンだし、カボチャはカボチャですが、人間の考えたある認識の方法からニンジンとカボチャを認識してみると、両者は「野菜である」と言うことができるのです。

言語と言うのは宇宙誕生の瞬間から生まれていたわけではなく、人間の発明品に過ぎないのですが、それでも、人間が生きる上での行動原理になっています。なぜなら、言語とは認識そのものですから。

 

なので、言語は認識そのもので、意識的にも無意識にも各個人の行動原理なっている上に、更に、その抽象性を利用され、様々な用途で実用されています。分かりやすい例でいうと、数学。数学と言う概念を発明したことにより、人間はモノづくりや自然現象を予測することに応用しています。また、言語を利用して法律を発明し、公権力を抑制するためのシステムとして現在進行形で使われています。

(※法律は公権力が個人を縛るものではなく、権力が暴走しないように基準を設けるものです。殺人を犯した人間は裁かれますが、これは法律が殺人犯の自由を制限しているのではなく、公権力に「殺人犯にならコレコレこういう場合にこのような権力を行使して良い」と制限を緩和しているのです。)

 

言語と言うのは、目に見えるところでも見えないところでも、日常的にありとあらゆるところに存在し、私たちの行動に選択肢を与えたり、逆に制限したりしています。

そのため、言語的IQ(そんな言葉あるのかな?)が高くなるということは、社会の構造や様々な現象を把握するための強力な手段になるように思います。

 

私は、物事を完璧に行うことに対して本能が「面倒くさい!!」と悲鳴を上げるタイプの人間なので、言語的IQを高めるためのトレーニングなんていう手段も着地点も見えない、時間ばかりかかりそうな予感がする面倒くさいことはしたくありません。しかし、一度言葉について意識をしはじめると、言葉を使うときに殆ど反射的と言ってもいいくらいに言葉の定義について考えてしまうようになります。

 

こうしてブログとかで文章を作成していたりすると、「普段自分は自信を持って定義を説明できないような単語を日常的に”何となく”の感覚で使っているな」と自己の認識をしてしまいます。

例えば、前段落で「文章を作成」と書きましたけど、”サクセイ”という音の響きを持つ熟語は主に二種類あって、文章をつくる類の”サクセイ”は”作成”、実用的なものをつくるときには”作製”という言葉を使います。また、似た音の響きとして”セイサク”があり、”制作”という言葉は芸術作品をつくることを指します。

 

こういうことを最近一々思ってしまうので、ちょっと辛いです。

 

そして、一つ一つの言葉の定義について調べたり思考を重ねている中で、少し思ったことがありました。

それは、私が日常的に使っている日本語のほとんどが、実は多文化圏の言語から輸入したものなのではないだろうか、と。言い換えると「元々日本語の中に存在しない概念を持つ海外の言葉の概念を、新たにつくった日本語の言葉の概念として定義した」という経緯で誕生した単語が実は多いのではないかと。

 

受験のために古典を勉強していた時代もありましたが、今、私たちが日常的に使っている単語と古典の中の単語で直接的な関わりがあるものの方が稀だった記憶があります(実際は多いのかもしれないけど)。先ほど例に挙げた”サクセイ”や”セイサク”も、ケースバイケースで色々な解釈をする”つくる”という日本語では対応できない事例が生じてしまったため、急遽制作したのではないでしょうか。

その事例については、あくまでも予想になりますが、例えば、三権分立などの海外のシステムを輸入したこと。法律とかはあいまいな書き方をしてしまっては本末転倒ですからね。

これも記憶違いだったら申し訳ないのですが、江戸時代くらいまで、今でいう公文書のようなものは、漢語で書かれていたようです。やはり、曖昧な表現が多い日本語では、制度をつくるような用途では不適切だったのではないでしょうか。

 

これらの仮説が本当だったからと言って「日本語が劣っている」と結論付けるつもりはありません。ただ、言語というものは認識そのものなので、意味が曖昧になりがちな日本語という言語を、特段その意識も無くなんとなく使い続けると、「なんとなく」「雰囲気で」物事を認識してしまう、悪い意味でのいい加減な人間になりそうな予感がして、ふと危機感を覚えた今日この頃でした。

物語とコード進行

ストーリージーニアスを1/4くらい読んだので感想を書いてみます。


感想文を書いてあんなアニメやこんな物語に文句をつけておきながら「じゃあお話を作るにはどうすればいいの?」っていう肝心な命題にはこれまであまり言及しないできました。それは、批判されるのが怖いというのもありますが、それに加えて、「物語を書く」ということについて根本的に自分が分かっていないという理由も最も大きいです。
そこで、今日は、「物語を書く」ということについて、考えはまとまっていないところもありますが勇気を出して考察を書いてみようと思います。

実は、いつかは自分で考えをまとめておきたいな~とは考えていました。
それであんな本やこんな本を読んで自分で調べてみたこともありました。いつも分かった気になるものの、やっぱりあと一歩のところでやっぱり「分からない」という結論に至りました。「物語を読み取る」ことと「物語を作る」ことは全く別の問題だと毎度実感するのね。つまり、このブログの中で「あのアニメ面白いこのアニメ酷い」と考察した内容は、物語を作る場合においてはほとんど全く役に立たないんですよね。

特にそれを強く感じたのは、リサ・クロン著の『脳が読みたくなるストーリーの書き方』を読んだ時のことでした。
読む人が夢中になってこその物語だっていう物語観には共感しましたし、物語を書く上でのテクニック、例えば物語に目的性を持たせる重要性などについては素直に「なるほどなぁ…」と思いました。
しかし、実際に物語を作るには「何か」が足りないと思いました。それらのテクニックを使っても私には物語を作ることができないなって思ってしまったのです。日常生活の起きた面白い出来事を物語に加工してみようと思ってみたものの、忠実にテクニックを再現しているはずなのに、物語っぽくならないのです。何かが足りないのです。何が足りないかは検討もつかないけれど、兎に角、何かが足りないと感じました。そして、その何かがつかめないと、物語を理解できても「物語を書く」ということは理解できないんだなと思い知らされました。

私は今、同じ著者の書いた『ストーリー・ジーニアス』を読んでいます。『脳が読みたくなる(ry』と同じ作者の本で、より物語を書きたい人のための指導書のような内容になっています。斜め読みではありますが全体に軽く目を通しました。今現在熟読している最中で、まだそれは1/4程度の進行度です。
まだ全体を熟読したわけではないから今から結論を出すのも良くないことだとは思いますが、やはり、この本を読んでも「物語を書く」ことは理解できないような気がしました。。
この本がダメだと言っているのではありません。むしろ逆です。さっき例に出した物語の具体性の話のように、「なるほどな」と思うような私にとっては斬新に感じられる完成されたテクニックが本書の中にはたくさん書かれています。
しかし、ダメなのです。
やはり、『脳読み(略称)』を読んだときに私が感じた、「物語を書く」ということについて私の知らない「何か」が分からないと、この本に書かれている内容は理解できないように思いました。
逆に、その「何か」さえ分かればこの本は物書き(を私が目指しているわけではありませんが)を目指している人にとってはとても力強い武器になるようにも感じられた。

ここで、ちょっと意外な機会から、私はその「何か」を見つけたような気がしました。

それは、コード進行です。

コードとは音楽の用語です。
簡単に説明すると、音の組み合わせ、ハーモニーのことらしいです。(私は音楽に関してはど素人なので間違えているかもしれない汗)
根幹のメロディラインにコードを組み合わせることで、曲に緊張感や不安、安心などを演出することができるようになります。そして、そのコードの変化を表した言葉が「コード進行」なのです。

私がこの言葉を知ったきっかけは、(大天才)松田聖子が歌っている(大天才)松任谷由実の曲について解説を読んだことでした。
あえて遊離したコードを組み合わせることで夏の気だるさを表現した『小麦色のマーメイド』や、単調に繰り返すだけのメロディラインなのにコードの力でウキウキしてしまう『Rock'n rouge』…

コード進行によっては曲調はガラリと変わります。時に、根幹であるはずのメロディラインを差し置いて主体になってしまうくらい、コード進行は強烈なのです。

メロディに意味を持たせているのはコード進行と言ってもいいかもしれません(私は音楽のど素人なので(ry)

つまり、私が言いたいことは…
物語におけるプロットがメロディラインで、登場人物の感情の変化がコード進行みたいなものなんじゃないかなって。
同じプロットで物語が進行しようと、登場人物の心情によって物語の意味合いは変わってきます。そういうことなのかなって。

いやしかし、今回言いたいことは、「物語に意味を持たせるのは登場人物の感情だよ」っていうことではないんです。これは今までブログの中でもさんざん言ってきたことです。読者として。

今回言いたいことは…物語を書く時に一番最初に意識すべきことって、「全編を通した感情の流れ」なんじゃないかなっていうことです。
それも、あんまり理屈的じゃなく、感覚的に大雑把に。
ハラハラ→ハラハラ→ハラハラ→ドキッ!→安心
不安ソワソワ→安心→ドキッ!→ドキドキ→安心→ドキッ!
みたいに大雑把に。

こういう大雑把な「流れ」というものがあった上で、物語の意味(感情。コード。)を作ったり、「これから始まるのは報告書の内容ではなくて物語です!!」って最初の流れを作ったり、流れの変化のさせるときの具体的なテクニックを示したのが『ストーリー・ジーニアス』(というか大体の物語作成の指導書の内容)なのではないかな、というのが今現在の私の考えです。

 

ストーリージーニアスを読んだ感想

という内容で近々ブログに文章を乗せる予定。


本当はブログに書こうかどうしようか迷いました。これまで「物語を読む」ことについて書いてきたけど、「物語を書く」ことについては言及しようと思います。マイチャレンジ。


考えはまとまってないし公開するには恥ずかしい内容だけど思い切って。というのも、結構自分の中で考えが変わったところがあるので。


で、予告宣言しないとグダグダ先延ばしにしそうなので、ここで宣言。


ついでに、今回は「起承転結という呪いについて」という内容のことも書いていこうかなと思います。





日本製のパソコンは買わない!!

今日のはただの日記。

 

二週間前にノートパソコンを購入。本当はデスクトップ型のパソコンがあったんですけど、引っ越しの際に持ち運びがあまりにも不便なので思い切ってノートパソコンの購入に踏み切りました。

 

で、そのときに得た結論が、「日本製のパソコンは死んでも買うものか!!」というもの。


なぜなら、価格と性能が釣り合っていないからです。言ってしまえば「高かろう悪かろう」だと思います。20万以上なのにCPUがインテルのCorei5-Uなんてザラ。せめて最低限i7くらいは欲しい…DELLやHPやlenovoならまずあり得ない価格設定です。ハードディスクがHDDなのも多いし…あ、メモリなんかは店によっては4Gのところもあったっけ?
まあ、これら性能のことの簡単な具体挙げると、「youtubeを再生しながWordを開くと動きが固まるパソコンが20万円以上」ってところでしょうか。う~ん、この。

 

まあ、日本製品っていうざっくりした括り方も乱暴だとは思いますけど、本当に、日本製品全体的にそうなんです。dynabookがまだ検討していた方。

 

こういう話をすると、「日本製品は壊れないのが売りなんだから、安かろう悪かろうのDELLとかと比べるのは間違い!!」みたいな意見も耳にします。
う~ん、いやしかし、最近DELLの品質も侮れないしなぁ…しかも、日本製品って言っても、Vaioを作っているSonyは伝熱系の技術に疎くて、熱が致命的なダメージになるパソコンっていう商品では品質的にあまり良くないんだよなぁ…壊れやすい。昔はよく、PS3で焼き肉をしたなんて動画もありましたね。今でもあるのかな?
それに、私が今回購入したMicrosoftSurfaceなんかはデザインとかも重視した高級路線の商品ですけど、20万出せば流石にi7(確かU。クロック数は2ギガHzかな?)の、メモリ8G、ハードディスクはSSD256Gはあります。こちらの性能だと、youtubeを見ながらアレコレ作業をしていてもサクサク動きます。
こちらはデザイン込みで価格が底上げされているのに、同じ価格で性能が上とか…

 

Microsoftの製品が完璧だ!!という風には思いません。というのも、ソフトが悪い。Windows10を使ってみて分かるように、Microsoftの製品はUIが悪い。Surface proも、パソコンだかタブレットだかようわからん使い勝手について、完成されたデザイン(見た目のデザインではなくて、機能的なもの)だとは思いません。あくまでも私は。

 

どの会社の製品もそれぞれの良さがありますし、それを見極めてユーザーは選択すればいいと思います。

 

しかし、

 

基本性能で劣っている日本製品は、こういう差別化の土俵にすら上がることができないのでは?と思った、パソコン購入までの一か月でした。

小論文には起承転結は必要ないし、物語に論理性は必要ない。

久々の投稿。

今回は当たり前…だけど意外と勘違いしがちなことについて書こうと思います。その内容というのも、タイトルに書いてある通り、小論文に起承転結は必要ないっていう話です。

いきなりこんな話をしたのは、個人的な理由があります。先日、実家で私物の整理をしていたところ、中学高校くらいに書いた自分の小論文を見つけたんですね。そしてその小論文を読んで思った感想が…無理に起承転結に意見をまとめようとして意味が分からないことになっている!!
そしてふと思ったことがあります。小中高と「小論文は起承転結を作れ!!」って教えられて、私もそうだと思い込んで生きてきましたが、大学で論文を書いたときに起承転結なんて意識しないかったことに気付き、ふと疑問を抱きました。そこでちょっと考えてみて私の出した結論は、起承転結っていうのは物語に求められるスーリーであって、論文に求められるストーリーではないということ。

この問題のカギは、そもそも小論文(論文)と物語って何が違うの?っていうことであると私は考えます。

これは複数意見があって当然の問題であるとは思いますが、その一つとして、人間の主観が中心に物事を描くか、筆者が主張したいことを多くの人に納得させるために書くかの違いだと思います。
例えば「リンゴが落ちた」ことについて文章を書くとしたら…物語であれば、それを見てある人間がどう感じてどういうアクションに及んだのかということが問題になるのが物語で、対して論文の場合は、「万有引力が働いたからリンゴが落ちた」や「リンゴが腐りかけていたから落ちた」などの著者の主張とそれに対する裏付けが問題になります。

まあつまり、論文と物語は全くの別物っていうことです。

物語では、「ところが!!」と状況を一変させて登場人物に試練を課すことは読者を引き込む一つの確立された手法であるかもしれませんが、論文で問題になるのは筆者の主張が正しいかどうかなので、読者を引き込むこの手法はそもそも要らないのです。意外性という主観は論文には求められていないものね。

これを抽象化して言うと、それぞれに求められているストーリ性の違い、という話になるのかなと思います。

ここでその話をする前に一つ注意しておきます。ストーリーという言葉は物語の内容という意味で語られることが多い言葉ですが、今回は、誰かの意図に沿って選択された情報の塊と思ってください。

同じことを繰り返しますが、性質上、物語では登場人物の主観の変化に焦点を絞ったストーリーになり、論文では筆者の主張の裏付けに焦点を絞ったストーリーになります。その物語のストーリーを組み立てるための一つの類型が起承転結なのであって、それを論文に当てはめるのはナンセンス。ナンセンスなのです。

保湿系ティッシュの正しい使い方

たまには記事を更新したいなぁと思ってちょっと日記.


内容はタイトルの通りです.
保湿系ティッシュって言っていいのかな?ウェットティッシュではないんですけど,手触りが良くて少ししっとりしている,あの少し高級な普通のティッシュです.具体的にはコレ↓

https://www.amazon.co.jp/%E3%83%8D%E3%83%94%E3%82%A2-%E9%BC%BB%E3%82%BB%E3%83%AC%E3%83%96-%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%B7%E3%83%A5-400%E6%9E%9A-%C3%973%E5%80%8B%E3%83%91%E3%83%83%E3%82%AF/dp/B001OGJV40/ref=sr_1_7?ie=UTF8&qid=1520757953&sr=8-7&keywords=%E9%BC%BB%E3%82%BB%E3%83%AC%E3%83%96
 

とかコレ↓
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%83%AB-%E8%B4%85%E6%B2%A2%E4%BF%9D%E6%B9%BF-200%E7%B5%84400%E6%9E%9A%C3%973%E7%AE%B1%E5%85%A5%E3%82%8A-%E3%83%91%E3%83%AB%E3%83%97100/dp/B01KT9E3K4/ref=sr_1_5?ie=UTF8&qid=1520757953&sr=8-5&keywords=%E9%BC%BB%E3%82%BB%E3%83%AC%E3%83%96

 

みたいな.

肌に優しいので,鼻水をかみすぎて鼻の下がガビガビになってしまう痛みから守ってくれるらしい素晴らしいティッ シュ.そんなティッシュを使う,正しいタイミングについて書きます.

 

結論から書くと,鼻の下が荒れる前に使え,ということです.

 

私,最近.花粉症にやられてしまい,その際ガサガサの普通のティッシュのストックが無かったのでこの高級ティッシュを使っ ていたところ,1箱使い切っても鼻の下が全く痛くないことに気付きました.二箱,三箱と同じティッシュを使ってみたところ,やはり鼻の下が全然痛くならない.ガビガビにならない.正直驚きました.
で,私,この類のティッシュについて大きな勘違いをしていたことに気付きます.
それは,「鼻の下の荒れを防ぐ道具」であって,「荒れた鼻の下を刺激しないように鼻水をかむことができる道具」ではないと いうこと.
今まで,荒れに荒れて,鼻の下が,潮が引いた海のようになった状態で鼻水をかんで,「普通に痛いじゃねーか!!」と勝手に キレていたのですが,そもそも使い方を間違っていただけでした.


ここで,ちょっと疑問に思ったことがあります.

 

普通,こんな勘違い,するか…?

 

この手の商品には大概,「肌に優しいティッシュです」って説明が書いてあるだけなので,使い方の解釈は色々あると思います が….しかし私の発想は,問題解決の本質から遠ざかってるように思えてなりません.だって,痛みは鼻の下の皮膚が荒れていることが原因なので,荒れを治す,または予防することが問題解決のために一番重要なことですから.その認識がある人は,私のような使い方はそもそも思いつかないのでは?という話です.

 

で,その発想の原因について二つほど思ったことがあります.

 

一つは,もしかしたら,人生観が反映されたのかもしれないな,ということ.

 

自分のように「その場凌ぎができればいいや」って発想になりがちの人間は,「痛み」こそが問題の本質であり.「痛み」を生じさせている「荒れ」が治っても治らなくても,重要じゃないのかもしれないということです.

 

もう一つは,余りにも間抜けな勘違いを続けていた自分への言い訳かもしれないですけど,バイアスのせい.

 

私,そもそもこの商品の存在を知ったのは,小さい頃に家族が使っているのを見たからでした.その人はいつも,鼻の下が荒れ てしまってから使っていたのです.知らず知らずのうちに,「そういうものだ」と思い込んでいたのかもしれない.

 

う~ん,真相は何処に?

 

 

アプモン感想まとめ その1

*************************アプモン感想まとめ その1*************************
アプモンの感想のまとめを書きます。
でも一気に書こうとすると一年後とかになりかねないので、取り敢えず現段階で集中力が続くところまで書いて徐々にアップ。そして最後に一つの記事にまとめようと思います。
本当は最初の方から振り返って書いて行こうとも思っていたんですけど、感想を読み返したり録画を見直すのが面倒くさいので、記憶が新鮮な後の方から振り返って書こうと思います。


/*-------この作品で一番大切なことは?---------*/
これを探すのが難しい。その時点で物語としては若干アウト。だからと言って悪いとも断言できないのですが…
私が考えるにこの作品の一番重要なところは…選択を積み重ねることの大切さだったんじゃないかなと思います。第一話でも、「あなたは主人公ですか?」という問いにYES NOで答えるシーンにかなり(しつこく)気合いを入れているのが分かりましたし、最終回でも主人公のハルは一応重大な決断をしました。
 ※一応、と書いたのは、それまでのハルの人格の描写によっては「ハルが作中で成長した」と考えることもできるけど、ハルは作中でも割と人物描写が疎かにされていた部類に入るので、実際にはサイコパスに見えてしまったという意味を込めています。詳しくは最終回にの感想へ→http://animekanso.hatenablog.com/entry/2017/09/30/183135
テーマの選び方自体は悪くないのではないかな、と思います。って書くと上から目線ですけど(^^;
というのも、AIが人間の完全上位互換であるアプモンの世界において、衣食住などの生活環境に関する大抵の望みは望みはAIが叶えてくれるので(※)、「生活をするために時間を売る」(もっと言えば、時間を換金する)という生き方ができなくなるからです。まあ完全に個人的な想像になるんですけど、そういう社会が到来したら、今とは時間に対する価値観がまるっきり変わると思います。限られた時間をどう使うかというのが、感覚的な人間の幸福度を左右する大きな要因になり得るのではないかと思います。そういった意味で、選択をすることや、自分が自分のボスになれるかといったところは、人間を完全に超越したAIを舞台背景にした世界観では大切になるのではないかと思いました。
しかし、やはり物語のテーマとしては弱いかなと感じるところもあります。というのも、キャラクターがどのような選択をしたか、どのような生き様を描いたかということに幸福の焦点があてられるのは、物語が物語として成立するためには必要不可欠な要素だからです。もうちょっと具体的に決めないと、テーマとしての指針は弱い気がします。
例えば、アプリドライブからハルへの質問の「あなたは主人公ですか?」というのも、「あなたはヒーローですか?」の方がもうちょっとしっくり来たような気がするんですよね…私もシナリオと蚊は素人なので断言できないんですけど、どうなんでしょうか。


/*----------結局、ハルは主人公になれたかどうか-----------*/
という書き方をしている時点でご察し化と思いますけど、私は、ハルは主人公になりきれなかったように思いました。
というのも、基本的にハルのしていることって、”身に降りかかって来た火の粉を払っているだけ”だからですよね。エリのアイドル活動のように、自分から叶えたい目標の一つや二つあって、それの障壁になっているからアプモンの引き起こす怪事件を解決しているっていうならもうちょっと違う印象になっていたとも思うんですけど。
最終回では、眠りに着いた親友を目覚めさせるために人工知能の勉強をし始めていましたが、まあ最後の最後になってようやく目標が見つかったというか、ハルの人生が始まったのかなという感じです。ただ、それらのことが全て”説明で済まされてしまった”ことがちょっと惜しいですけど…(^_^;)


/*-------皮肉なことに--------*/
作中で一番主人公をしていたのって、人工知能である勇仁だったと思います。
途中経過もそうですけど、最期、自ら死を選んだシーンは、何かを得る代わりに何かを捨てなければならないという、選択の本質により踏み込んでいたと思います。
まあハルもそうって言っちゃあそうなんですけど…サイコパスっぽいんだよなぁ。


/*-----そもそもアプモンは必要だったのか------*/
という書き方をしている時点でご察し化と思いますけど…(二度目)
アプモンがいたからこそ、アプモンのアニメとしての味が出ていたとは確かに思います。しかし、アプモンがいなくてもシナリオ上は問題が無かったように思われます。
というかぶっちゃけ、アプモンが邪魔でしたΣ(゚Д゚)
というのも、アプモンは単発で完結する話を何話も積み重ねる方式のアニメなんですけど、それぞれのエピソードで、アプモンと人間が関わることに寄って人間が(もしくはお互いに)成長するという要素が、話の軸に取り入れられていなかったからです。最初期の方のアストラとミュージモンのエピソードは、そういった意味でいいものが多かったと記憶していますが…
アプモンは毎回騒ぎを起こして狂言回し的な役割を持っていたりもしましたけど、それだけなら別にアプモンじゃなくてもいいし、ARフィールドでは人間もデータ化されて若干強いようなので、ぶっちゃけ強化スーツを着て人間が戦った方が手っ取り早い。
まあここら辺の話は、アプリユニバースに限らず、デジモンシリーズ全体が背負った宿命的な問題とも言えるかもしれないですが…
その点、初代は子供たちの成長を表すギミックとして上手く働いていたりと、うま~く色々な要素が噛合っていたという印象。
う~ん、自分でも言いたいことは纏まっていないですけど、要するに、”アプリモンスターは、主人公たちの本質に踏み込む存在になりきれなかった”と思っていただければ…


/*---------しかしやはり、アプモンは好き-----------*/
しかし、モンスターのキャラクターは完成度が高いと思いましたし、物語としての一貫性は無くても、オシャンティーなモンスターを観ているだけでも結構楽しかったです。毎週。


今日は疲れたのでここまでにします。