アニメとかの感想書留

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意味もよく分からずに使っている日本語が多すぎる件について

日記です。

 

最近思うことについてダラダラと書いていこうと思います。

 

今回は、日本語について最近思うこと。

 

結論としては、日本語の熟語の意味を、誕生した経緯まで含めて一つ一つ理解していくと思考能力が上昇するのではないか、という話です。

 

最近、物事を言語化して考えることは思考するということそのものだなぁと思う機会が個人的に多いです。言語化して物事を考えるって、具体性の中にある抽象性を捉えることですからね。

「野菜」という単語を一つ取ってみても、言語と言う者は多分に抽象性をはらんでいると思う今日この頃です。ニンジンとカボチャなんて見た目からして全然違いますからね。しかし、「野菜」を「食用に人間が育てた植物」かつ「木に実らないもの」とか定義してみると、不思議なことにニンジンとカボチャの共通性が見えてきます。「野菜」だろうが何だろうが、ニンジンはニンジンだし、カボチャはカボチャですが、人間の考えたある認識の方法からニンジンとカボチャを認識してみると、両者は「野菜である」と言うことができるのです。

言語と言うのは宇宙誕生の瞬間から生まれていたわけではなく、人間の発明品に過ぎないのですが、それでも、人間が生きる上での行動原理になっています。なぜなら、言語とは認識そのものですから。

 

なので、言語は認識そのもので、意識的にも無意識にも各個人の行動原理なっている上に、更に、その抽象性を利用され、様々な用途で実用されています。分かりやすい例でいうと、数学。数学と言う概念を発明したことにより、人間はモノづくりや自然現象を予測することに応用しています。また、言語を利用して法律を発明し、公権力を抑制するためのシステムとして現在進行形で使われています。

(※法律は公権力が個人を縛るものではなく、権力が暴走しないように基準を設けるものです。殺人を犯した人間は裁かれますが、これは法律が殺人犯の自由を制限しているのではなく、公権力に「殺人犯にならコレコレこういう場合にこのような権力を行使して良い」と制限を緩和しているのです。)

 

言語と言うのは、目に見えるところでも見えないところでも、日常的にありとあらゆるところに存在し、私たちの行動に選択肢を与えたり、逆に制限したりしています。

そのため、言語的IQ(そんな言葉あるのかな?)が高くなるということは、社会の構造や様々な現象を把握するための強力な手段になるように思います。

 

私は、物事を完璧に行うことに対して本能が「面倒くさい!!」と悲鳴を上げるタイプの人間なので、言語的IQを高めるためのトレーニングなんていう手段も着地点も見えない、時間ばかりかかりそうな予感がする面倒くさいことはしたくありません。しかし、一度言葉について意識をしはじめると、言葉を使うときに殆ど反射的と言ってもいいくらいに言葉の定義について考えてしまうようになります。

 

こうしてブログとかで文章を作成していたりすると、「普段自分は自信を持って定義を説明できないような単語を日常的に”何となく”の感覚で使っているな」と自己の認識をしてしまいます。

例えば、前段落で「文章を作成」と書きましたけど、”サクセイ”という音の響きを持つ熟語は主に二種類あって、文章をつくる類の”サクセイ”は”作成”、実用的なものをつくるときには”作製”という言葉を使います。また、似た音の響きとして”セイサク”があり、”制作”という言葉は芸術作品をつくることを指します。

 

こういうことを最近一々思ってしまうので、ちょっと辛いです。

 

そして、一つ一つの言葉の定義について調べたり思考を重ねている中で、少し思ったことがありました。

それは、私が日常的に使っている日本語のほとんどが、実は多文化圏の言語から輸入したものなのではないだろうか、と。言い換えると「元々日本語の中に存在しない概念を持つ海外の言葉の概念を、新たにつくった日本語の言葉の概念として定義した」という経緯で誕生した単語が実は多いのではないかと。

 

受験のために古典を勉強していた時代もありましたが、今、私たちが日常的に使っている単語と古典の中の単語で直接的な関わりがあるものの方が稀だった記憶があります(実際は多いのかもしれないけど)。先ほど例に挙げた”サクセイ”や”セイサク”も、ケースバイケースで色々な解釈をする”つくる”という日本語では対応できない事例が生じてしまったため、急遽制作したのではないでしょうか。

その事例については、あくまでも予想になりますが、例えば、三権分立などの海外のシステムを輸入したこと。法律とかはあいまいな書き方をしてしまっては本末転倒ですからね。

これも記憶違いだったら申し訳ないのですが、江戸時代くらいまで、今でいう公文書のようなものは、漢語で書かれていたようです。やはり、曖昧な表現が多い日本語では、制度をつくるような用途では不適切だったのではないでしょうか。

 

これらの仮説が本当だったからと言って「日本語が劣っている」と結論付けるつもりはありません。ただ、言語というものは認識そのものなので、意味が曖昧になりがちな日本語という言語を、特段その意識も無くなんとなく使い続けると、「なんとなく」「雰囲気で」物事を認識してしまう、悪い意味でのいい加減な人間になりそうな予感がして、ふと危機感を覚えた今日この頃でした。